2014年10月19日

捨てる


捨てるといっても,僕はへそ曲りなので,流行の捨てる何たら,には竿ささない。そうではない。そもそも捨てるとは何か。

まずは,例によって,字から。「すてる」に当てる字は,

委 「禾(まがってたれた稲)+女」で,しなやかに力なく垂れる意。ゆだねる,まかせる意だが,考えたら,おのれの手を離すという意味では,確かに,捨てるに通じる。

遺 「辶+貴(盛り上がって目立つ)」で,ものを残して立ち去り,それが図となって目立つ意。忘れる,残す,置き忘れるの意。置き残すとは,確かに,心理的には遺棄に通じる。

棄(弃) 「子の逆形+ごみとり+両手」で,赤子をごみ取りに載せて捨てるさまを表すという。思い切りよく捨てる,振り捨てる,という意味。

捨 舍(=舎)は,「(おしのばすスコップのかたち)+口印(場所)」で,のびのびとからだをゆるめて伸ばす休み場所の意。捨は,手の力を抜いて,指を伸ばし話すこと,「取」(手をひきしめて持つ)の逆。「拾う」に対することばで,いらないものとして投げ出したり,見放したりする意。

舎(舍) 「(おしのばすスコップのかたち)+口印(場所)」で,のびのびとからだをゆるめて伸ばす休み場所の意で,捨てるには違いないが,てをゆるめてはなしてやく,あるいはすておく意。

釈(釋) 睪は,「目+幸(刑具)」で,手か背をはめた罪人を,ひとりずつ並べて面通しする意。「釋」は,それに「采(ばらばらにわける)」を加えて,しこりをばらばらにほぐし,一つずつわけて,一本の線に連ねる意。で,ほぐす,とく,ゆるめる,という意で,そこから,つかんだものをはなす,すてるへとつながる。

撤 右側のつくりの方は,「ものの通りをよくする」意で,取り除く,通りをよくする,から捨てるにつながる。

捐 右側のつくりは,「○印+肉」で,捐は,丸くくりぬいて捨て去る意。資材を割く,義捐金の意味がよくわかる。

「すてる」というのは,どの「すてる」なのだろう。溜まったものや不要なものを,ただ投げ捨てるのに意味がないのは,ただの循環に過ぎないからだ。それが,

おのれの死後になるか,

いまになるか,

に,意味があるとは思えない。

捨てられない,という言い方をするが,それは捨てたくないのを言い換えただけだ。捨てたくないなら,そういう自分がいることを認めればいい。その自分も,いつかは,捨てたくなる時が来る。

僕にとって本がその類だが,捨てられなかったのは,捨てるとその後,必要になる時が必ず起き,それが,二度と手に入らない本の場合もあるからだ。いまだに探しているものがある。

学生の時,蔵書をすべて捨てたことがある。うだうだと鬱屈する自分が嫌だったからだ。捨てたからと言って鬱屈がなくなるわけではないことは,その時思い知った。現実の鬱屈は,現実に立ち向かわなくては,晴れないのだ。そんな当たり前のことを捨てることで知るとは,誠におろかであった。しかもそのとき捨てた本には,いま考えると稀覯本というか,その後捜したがついに見つからなかった本がある。その方が,かえって執着を増さしめた。

しかし生きていれば,捨てることを必然的に求めるシチュエーションにおかれる。建て替えで転居したとき,僕は,自分の執着と戦って,ほぼ半分の本と,一切の日記,書き残したものを捨てた。

本については,もはやそれほどの向学心が残っていなくて,捨ててしまったと後悔するケースは,稀になった。思えば,手に入る類の本しか読まなくなったせいだ。

しかし,僕はそういう行為に意味づけることは拒否する。

僕は,引っ越し先や運送会社の倉庫への委託を考えれば,残そうと思えばすべて残せた。そこで捨てようと思ったのは,どうせ建て替えるのなら,過去の軌跡や記録をこの際一掃してみようという意志が先だ。そこに意味は,それ以上ないし,だからと言って,自分に変化が起きたわけでもない。

第一,捨てる行為は,現実と何の格闘もしていない。ただの自己対話というか,自己完結した自分の中での世界の話だ。人は,現実と格闘しなければ変わらないと信じている。ものを捨てる行為に意味づけするのが嫌なのは,それは何一つ自分が現実と格闘しないで,自分を変えようという虫のいい心根が賤しいからだ。

片思いはいくらしても,自分は傷つかない。ストーカーも本人の妄想世界で完結している限り,傷つかない。相手と相まみえて初めて,現実にぶつかる。それを経ないで,人は,決して成長しない。妄想の世界の中では,自己対話でしかないからだ。

認知症にならない三条件というのがある。

脱メタボ,有酸素運動,コミュニケーション

である。脱メタボも,有酸素運動も自己完結してできる。大事なのは,人とのコミュニケーションなのである。独り言やテレビとの対話では,脳のネットワークは,痩せていく。いや脳細胞は死んでいく。刺激にならないからだ。同じことだ。他者と関わるとは,あるいは現実と向き合うとは,人と向き合うということだ。

敢えて言うなら,捨てるというなら,

喜捨,

それも,一切合財の預金も,家族も,家も,物も捨ててみればスッキリするだろうか。そうではないのだ。出家を決断した,その決意が,ものを放棄させるのではないのか。僕は,人の方を優先する。捨てる自分によって,自分を変えようとするのは,意志としての自分の放棄だ。

惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ

とは,佐藤義清の出家に際しての歌だと言われる。西行である。真偽は知らぬが,出家の際に衣の裾に取りついて泣く4歳の娘を縁から蹴落として家を捨てたとも,弟に託したとも,いわれる逸話が残る。

いずれにしても,一切合財を,そこに置き残したことに変わりはない。出家の意思が先なのである。

最近の脳科学に拠れば,こうである。

おのれの意図を意識するのは,運動が生ずる250ミリ秒前,脳は,それより400ミリ秒前に,運動神経系の活動電位が変化している。

つまり,おのれが捨てようと思うより前に,すでに脳は,捨てるべく身体を動かそうと活動を始めている,というわけだ。

ということは,おのれの意志の前に,そう脳は,おのれの意識に意志せしめるように活動を開始している。脳もまた自分であるかもしれないが,それは無意識のおのれだ。そのおのれをなぞって,意識が,動き始める。

しかし,だ。脳科学が何と言おうと,人は,自由意志という幻想で,自分であることができる。そういうことの方に,僕は,意味を見出す。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:43| Comment(0) | 意思決定 | 更新情報をチェックする
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