岩河亜紀個展「だれかがどこかで」
https://www.facebook.com/events/719156641487112/?ref_dashboard_filter=upcoming
に伺ってきた。
過ぎ行く日常の中で
喜び,怒り,悲しみ
思いを巡らせ
時には何も考える事なく
生まれては消え
そして新たに生まれる
この瞬間もだれかがどこかで
と一文が飾ってあった。
思い
や
考え
や
感情
や
気持ち
というカタチにならないものを造形するのに,抽象画は向いているのだ,ということに改めて気づかされた。そういう意味では,
どこかでだれかが
ではなく,やはり,
だれかがどこかで
になるのだろうと思った。どちらにするかを迷った末,これに決められた由だが,むべなるかなである。
学生時代の三点と最近作の大作が向き合っている格好なのだが,僕は,まあ素人なので,好みで言うと,はさまれた真正面にあった,
青寂
を採る(上記個展の案内サイトのバックになっている絵です。そこをクリックすると全体像が見られます)。これの前の段階の,具象スケッチから,色で形を消していくプロセスの作品三点も見せていただいたが,どれも作品としての独立性があるが,やはり完成したものが一番いい。
具象から完成された抽象画へのプロセス
が,作品が,
いま・ここ
から,
いつか・どこか
へと自立していくプロセスに感じられた。軛を脱するといってもいい。
僕は,作品は,独立した世界を見せながら,しかし,この世界とせめぎ合っていなくてはならない,と思う。具象を残すというのは,
この世界の影を引きずる
ということだ。それも悪くはない。学生時代の三作は,その色合いがあり,それはそれで面白い。が,作品自体で,この世界に拮抗する力はない。
何かに似ている
何々みたい,
というのは,引きずる影が,観る側のエピソード記憶(あるいは自伝的記憶)と照応しあう。そういう引き寄せ方というか,思いの入れ方も,悪いとは思わないが,こちらの思いとは断絶したところで,作品自体が,
おのれの世界を屹立させる,
というのがいい。それこそが,いままで見たこともない,
一つの世界
であり,
独自のパースペクティブ
なのだと思う。「青寂」は,
静寂
なのかもしれないが,
孤独
と
寂寥
の孤影を感じさせる。影は,人ではなく,「思い」が立っている,という意味である。しかし,孤独が寡黙とは限らない。饒舌な孤影もある。
やはり名づけは,重要だ。作家が,
独自に見つけた世界
は,作家にしか名づけようはないのだから。
というよりも,名づけなければ,その世界は存在しないのかもしれない。
「名づけるとは,物事を創造または生成させる行為であり,そのようにして誕生した物事の認識そのものであった。『大汝,少彦名の,神こそば,名づけはじめけめ』といった神話的な表現は,世界に対する関与の在り方を端的に語っている。名づけられることによって『世界』は,人間にとっての世界となった。」
つまりは,名づけることで,のべたんの地に,それが図として顕現する。せっかくの世界は,名づけなければ,世界にならない。
参考文献;
市村弘正『「名づけ」の精神史』(みすず書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
ラベル:名づけ