2014年10月20日

名づけ


岩河亜紀個展「だれかがどこかで」

https://www.facebook.com/events/719156641487112/?ref_dashboard_filter=upcoming

に伺ってきた。

過ぎ行く日常の中で
喜び,怒り,悲しみ
思いを巡らせ
時には何も考える事なく
生まれては消え
そして新たに生まれる

この瞬間もだれかがどこかで

と一文が飾ってあった。

思い

考え

感情

気持ち

というカタチにならないものを造形するのに,抽象画は向いているのだ,ということに改めて気づかされた。そういう意味では,

どこかでだれかが

ではなく,やはり,

だれかがどこかで

になるのだろうと思った。どちらにするかを迷った末,これに決められた由だが,むべなるかなである。

学生時代の三点と最近作の大作が向き合っている格好なのだが,僕は,まあ素人なので,好みで言うと,はさまれた真正面にあった,

青寂

を採る(上記個展の案内サイトのバックになっている絵です。そこをクリックすると全体像が見られます)。これの前の段階の,具象スケッチから,色で形を消していくプロセスの作品三点も見せていただいたが,どれも作品としての独立性があるが,やはり完成したものが一番いい。

具象から完成された抽象画へのプロセス

が,作品が,

いま・ここ

から,

いつか・どこか

へと自立していくプロセスに感じられた。軛を脱するといってもいい。

僕は,作品は,独立した世界を見せながら,しかし,この世界とせめぎ合っていなくてはならない,と思う。具象を残すというのは,

この世界の影を引きずる

ということだ。それも悪くはない。学生時代の三作は,その色合いがあり,それはそれで面白い。が,作品自体で,この世界に拮抗する力はない。

何かに似ている

何々みたい,

というのは,引きずる影が,観る側のエピソード記憶(あるいは自伝的記憶)と照応しあう。そういう引き寄せ方というか,思いの入れ方も,悪いとは思わないが,こちらの思いとは断絶したところで,作品自体が,

おのれの世界を屹立させる,

というのがいい。それこそが,いままで見たこともない,

一つの世界

であり,

独自のパースペクティブ

なのだと思う。「青寂」は,

静寂

なのかもしれないが,

孤独

寂寥

の孤影を感じさせる。影は,人ではなく,「思い」が立っている,という意味である。しかし,孤独が寡黙とは限らない。饒舌な孤影もある。

やはり名づけは,重要だ。作家が,

独自に見つけた世界

は,作家にしか名づけようはないのだから。

というよりも,名づけなければ,その世界は存在しないのかもしれない。

「名づけるとは,物事を創造または生成させる行為であり,そのようにして誕生した物事の認識そのものであった。『大汝,少彦名の,神こそば,名づけはじめけめ』といった神話的な表現は,世界に対する関与の在り方を端的に語っている。名づけられることによって『世界』は,人間にとっての世界となった。」

つまりは,名づけることで,のべたんの地に,それが図として顕現する。せっかくの世界は,名づけなければ,世界にならない。

参考文献;
市村弘正『「名づけ」の精神史』(みすず書房)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

ラベル:名づけ
posted by Toshi at 04:28| Comment(0) | 個展 | 更新情報をチェックする
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