怨霊


山田雄司『怨霊とは何か』を読む。

将門の怨霊だの,道真の怨霊だのというのは,過去のことと言いたいが,さに非ず,今日も,我々の心性の中に生きている。大手町の一角の「将門の首塚」は,関東大震災後,その上に大蔵省の仮庁舎が建てられたが,

「しばらくすると大蔵官僚の中で病気となる者が続出し,工事関係者にもけが人や死亡者が相次ぎ,早速整爾大蔵大臣をはじめ二年間に十四人が相次いで死亡し,けが人も多く,特にアキレス腱が切れる者が多かったという。これは将門が足の病のために敗戦の憂き目を見たという故事に関係があるのではないかという噂が広がり,塚の上の庁舎は取り壊されて,昭和三年(1928)三月二十七日に盛大に将門鎮魂祭が行われた…。」

ということでなだめたはずが,その後も「将門の祟り」はつづき,

「昭和十五年六月二十日には都内二十ヶ所あまりで落雷があり,大手町の逓信省航空局をはじめ,付近一帯が延焼した。この年は将門没後千年にあたったことから,庁舎はただちに移転され,一千年祭が挙行され,河田烈大蔵大臣自ら筆をとって古跡保存碑が建立された。」

空襲で焼け野原になった後も,

「GHQのモータープール建設用地として接収され,米軍のブルドーザーによって焼け跡の整地が行われていたところ,ブルドーザーが地表面に突出していた石にぶつかったのが原因で横転し,日本人運転手と作業員の二人がブルドーザーの下敷きになり一名が即死し一名が大けがをした。また,労務者のけが人も絶えなかったこともあり,施行者が調べてみると,ここは将門塚のあった場所で,ブルドーザーがぶつかった石は,塚の石標であったことがわかった。」

そこで町内会長が司令部に塚の由来を説明し,壊さないよう陳情し,塚は残されることになった。

他にも,四谷怪談を歌舞伎や芝居等で上演する前には,お岩様ゆかりの寺や神社にお参りをしないと祟りがあると言われている,という話など,我々の中に生きていることはある。

では怨霊とは何か。著者は,

「怨霊とは死後に落ち着くところのない霊魂であり,それが憑依することにより個人的に祟ることから始まって,疫病・災害などの社会全体にまで被害を及ぼす存在」

と考えられているとし,

「本書では,日本三大怨霊といわれる菅原道真(845~903),平将門(916~40),崇徳院(1119~64)がどのようにして怨霊となって人々を恐怖におとしいれ,さらにはいかなる鎮魂がなされたのか,そして,近世を経てどのように受け継がれて現代に至っているのか,を具体的にあきらかにしていく。」

と,述べている。細部はともかくとして,面白いのは,道真にしろ,崇徳院にしろ,本人は,たとえば,菅原道真は,

「望郷の思いを抱き寂しい生活を嘆きながらも,決して醍醐天皇を怨んだりするようなことはなく,仏教に帰依していた」

し,崇徳院にしろ,

「思ひやれや都はるかにおきつ波立ちへだてたるこころぼそさを,と詠っていても怨念と化す姿勢は窺われない」

という。にもかかわらず,『保元物語』で言うように,筆写した五部大乗経に,舌を噛み切ってその血で大乗経の奥に誓状を書き,諸仏に制約して経を海底に沈めた,というような姿を描き,怨念を煽り立てたのは,陥れた側の後ろめたさもあるが,疫病,天変地異などによる社会の不安定化を反映した不安の投影という面もある。さらに,崇徳院の側に組した側の,つまり敗者の側の,

「崇徳院の復権,さらには自らの復権を行うために,怨霊の存在を語っていった」

という,生臭い理由があり,社会的な不安が,その原因を見つけたがっている心性と重なった,という面もあるに違いない。

こうした怨霊を意識する背景には,

「生命体は肉体の中に霊魂がとどまっていることにより生きている」

という霊魂観がある。

「魂は気のようなものだと考えられていたことから,睡眠中や失神したときには鼻や口から抜け出すことがあった。」

と考えられていて,そのカタチは,『和漢三才図絵』によると,

「人魂はオタマジャクシのような形をしていて,色は青白くてほのかに赤く,静かに空を飛び,落ちたところには小さくて黒い虫がたくさんいる」

という。だから,魂は,ときに生きていても,抜け出す。「生霊」という。では,なぜ怨霊と化すのか。慈円の『愚管抄』には,

「怨霊とは,現実世界において果たせなかった復讐を,冥界において果たすために登場する存在であって,相手を攻撃するだけでなく世の乱れをも引き起こす存在」

と記す。怨霊という言葉自体は,漢訳経典にはなく,中国仏教にはない言葉,つまり日本の仏教者が創り出した言葉であろう,と著者は言う。初見は,『日本後記』に,延暦二十四年(805),廃太子された早良親王の怨霊という言葉がでる。

このとき,これを鎮めたのが興福寺僧善珠。

「善珠は早良の怨霊を調伏したのではなく,仏法を説いて聞かせることによって鎮めたのである。『怨をもって怨に報い』るのでは怨念の連鎖がとどまることがないため,そこからの解脱を説くことによって怨霊をなだめた」,

この善珠の,「呪術的力による調伏」ではなく仏法を説く流れは,最澄・空海を経て,

「怨霊に対して説いて聞かせ,成仏することを願う」

というスタイルが確立した,と著者は言う。しかし,

「室町時代までは,怨霊の存在が信じられて,災異の原因を怨霊に帰結させて国家的対応がとられることも少なくなかった。それと同様に,神社などで発生する『フシギ』な現象すなわち怪異が発生すると,神意を読み解くために朝廷に報告されて,先例が調べられたり,卜占が行われたりして,その対処のために神社で祈祷・奉幣などが行われた。しかし,こうした怪異のシステムも戦国時代にはなくなっていく。
戦国時代を境に神観念は大きく転換した。さまざまな現象の背後に神意の存在を感じ,さらなる災異が起きないように神をなだめるという国家による神々への対応は行われなくなった。それと対照的に,豊臣秀吉,徳川家康といった国家の主導者に神号をあたえて神として祀り,以後傑出した人物が神として祀られる先鞭となった。この現象は,相対的に神の地位が下がることにより人が神になることができるようになるとともに,神に対する崇敬心が希薄になったことを意味しよう。」

と。しかし,我々の中に,いまも,非業な死を遂げた人のために,

「その霊を慰めるために慰霊施設が必ずと言っていいほど建立される。交通事故で亡くなったひとのために,事故のあった場所に仏像が安置されるし,天変地異のために命を落とした人のために,石碑などが建立される。」

ここには,

「外的要因により自らの意思に反して命を奪われた人の慰霊は当然行われなければならない」

という考えが,我々の中にあるということを反映している。それはかつての慰霊がそうであったように,

「関係者の心を整理して慰める行為」

には違いないが,そうしなければ「祟る」という深層心理が根強く残っているともいえる気がする。それは,非命に倒れたものへの慰霊でもあると同時に,残されたものの立命でもあるようだ。

参考文献;
山田雄司『怨霊とは何か』(中公新書)






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