「てやんでえ」
って何,という話で,
「何言ってやんでえ」
の略だろう。
「四の五の言ううのに,対して言うのでは」
と言ったら,では,
「四の五の」
というのは,どういう意味か,ということになった。それでもって,調べてみるといういきさつで,このブログを書くということに相成った。「四の五の言う」の意味は,
なんのかんのとめんどうなことを言う,
とか
あれやこれやとグズグズ言っているさま,
ということらしい。「四の五の」は,江戸末期の『俚言集攬』に載っているらしい。
賭博用語で「一か八か」の対語として生まれた言葉で,サイコロの四と五の目の形が似ていたことから丁・半のどちらか選ぶか迷っているさま,あるいは,「四だの五だのと文句を言う」を意味した。ここから転じ,一般にも広く普及したが,いまではヤクザ映画や時代劇などで聞かれる程度になっている。
しかし,このほかに,
「一も二もなく」という「即座に」のという意味から,一や二どころか,四や五までぶつぶつ言うところから来ているという説,
四書五経(『論語』『大学』『中庸』『孟子』と『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)に由来し,「四書だの五経だのと理屈ばかりこねる」という意味,
等々もあるらしい。しかしまあ,『俚言集攬』を採るのが妥当だろう。これは,想像だが,薄暗い賭場では,坐る位置によっては,四の目と五の目は見分けにくかったのではないか,だから,四なのか,五なのか,と,「四の五の」ともめやすかったのではないか,と。
『俚言集攬』には,
一富士二鷹三茄子
とか
ちんぷんかん
とかと,いまも残る言葉がある一方,できないことのたとえにして,
富士の山を張り抜く
というような, 富士山を型にして張子をつくる,という言い方のように,とうに消えた物言いが出ているようだ。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/404842040.html
でも触れたが,
しかと
とか
やばい
とか
落とし前
とか
チクる
とか
うざい
とか
ばっくれる
とか
等々結構,ヤクザやその筋でしか使っていなかったことばが,素人というか一般人が平気で使うようになった。メディアの影響かもしれないが,そういう境界というのが,消えている,ということなのかもしれない。この言葉だって,消えていく。
それにしても,考えてみれば,つい,
四の五の
と口走ったが,これ自体,もともとは普通の人は使わなかったのだと考えると,いつの間にか日常語になり,そしていまでは死語に近くなっており,若い人は意味すらわからないのかもしれない。
そういえば,「ラ抜き」が問題視されていたことがあるが,たとえば,
食べられる
を
食べれる
寝られる
を
寝れる
というように。年配者は,「言葉遣いを知らない」と批判するが,若い人からは,「食べられる」ではなく「食べれる」の方をOKとするように逆転している。
しかし,この「ラ抜き」現象は,実は江戸時代からあって,それが少しずつ進行してきたものだと,専門家は指摘される。
言葉は生き物なのだから,是非を言い立てる側が,自分の拠って立つ時代背景を根拠にしているだけなのかもしれない。その意味では,いつのまにか,
ナウい
が,それを使うこと自体,微妙な空気を誘うほど,ほとんど使われなくなっている。言葉の消長というか,新しい言葉が生まれて消えていく,消費速度がどんどん早まっているような気がする。
年初にはやった言葉が,それを年寄りが知る年末ころになると,ナウいと同じシチュエーションに置かれる羽目になるのかもしれない。
いやはや,一日一日の過ぎ行く時間の早さを感じるスピードに反して,時代の動きを肌で感ずるまでにはすごく時間がかかるようになる,このギャップの大きさが加齢というもののようなのである。
参考文献;
白井恭弘『ことばの力学』(岩波新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
ラベル:四の五の