2014年10月31日

乖離


藤倉 麻美個展『耽々 / ドキュメント』にお邪魔してきた。

のっけから関係ないことにこだわるが,恥ずかしながら,

「耽々」



「眈々」

と取り違えていた。

「耽」は,

「冘」は,下に押し沈める意で,

「耽」は,耳が,上から下へ下へ深く垂れ下がること,転じて,深入りする,となる。だから,

ふける
とか
深入りする

の意となる。僕は,「虎視眈々」の,

「眈々」

というふうに受け取っていた。この「眈々」だと,

虎などが目を鋭くして注視する,転じて,野心をもって機会を狙う,

という意になる。

まあ,どうでもいいようだが,言葉にはこだわる質なので,ちょっと弁解。

僕は,チラシに案内された絵

http://gallery-st.net/w2img/20140905111920Fujikura2014_DM_ol1.jpg

に誘われて,出かけた。

今回は,入った瞬間,モノトーンの

暗さ,

を感じたが,別に忌避する感覚はなかった。同時に,

寂寥

というか,

「寂しさ」といいうより,「寞」という字を当てたい。「莫」(バク・マク)は,

「艸(くさむら)+日+艸」の会意文字。太陽が,草むらに隠れて,姿を見せなくなること,

という。「寞」は,

「宀(いえ)+莫」

で,家の中に,姿も声もないこと,という意味になる。

寂寞

である。これを感じた。

そのせいかどうか,言葉と絵との乖離に悩まされた。

言葉は,この場合,タイトルのことにしておくとして,タイトルが,絵の世界の入り口にはなっていない。意図的か無意識かは僕には考えが及ばない。

たとえば,僕は,

「花種」

と題された絵が,一番いいと思ったが,それにしても,タイトルと描かれたものとに乖離を感じた。もう少し言うと,ズレといってもいい。

吉本隆明は,言葉を,

自己表出

指示表出

に分けた。タイトルとは,「描かれた絵」への「名づけ」だとすると,

その世界そのものの名づけなのか,
その世界への誘いへの名づけなのか,
その世界の入口への名づけなのか,
その世界の象徴というなづけなのか,
その世界への思い(入れ)への名づけなのか,

等々あるが,いずれにしても,タイトルが,指示しているものがあるはずだ。それが,

そこにある「絵」そのものを指しているのか,
「絵に描かれた世界」を指しているのか,
「絵への標識」を指しているのか
「絵への思い」を指しているのか,
「絵のテーマ」を指しているのか,
「絵のモチーフ」を指しているのか,
「絵に見える世界」を指しているのか,
「絵の向こう側の世界」を指しているのか,

等々,いずれにしたところで,作家にとっては,タイトルを名づけた,

意図

があったはずだ。その意図が,たとえば,

絵に見える世界ではなく,絵の裏のテーマ

を指し,観る者に挑戦しているのだしても,その言葉は意味があるはずである。逆に,

絵への思いを,
あるいは
絵に託した思い
を,

自己表出として,

タイトル

にしたのだとしたら,その思いが,観ている者に伝わらなかったとしたら,その絵は,

思いの表現

に失敗したことになる。

僕は,表現するとき,

コトバにするのと,
絵にするのと,
カタチにするの,

とに差があるとは思わないが,表現されたものそのものが直接的に伝えて来るものの力という意味では,絵や造形は,インパクトがあると思っている。そのインパクトとタイトルが,相殺するような,乖離をしばしば感じた。それが,作家の意図したものだとしたら,その

乖離

に意味があるのだろう。しかし,その意味で言うと,こちらには,そのチャレンジを受け止める技量も力量もない。

ひとつだけ,「めめ」と題された,暗いバックに目が四つ並んでいる絵があった。僕は,全体の象徴として,

絵に描かれていないものがテーマ

なのか,という印象を得た。と同時に,作家は,その目で,こちらを観ていると見えなくもない。しかし,それだとすると,この作品が,作品世界としての,

自立

を欠いていることになる。はてさて,いずれであろうか。

参考文献;
吉本隆明『言語にとって美とはなにか』(勁草書房)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:06| Comment(0) | 個展 | 更新情報をチェックする
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