2014年11月01日

二人会


一年ぶりくらいに,笑福亭鶴二さん,柳家さん生さんの「柳家さん生・笑福亭 鶴二二人会」

https://fbcdn-sphotos-g-a.akamaihd.net/hphotos-ak-xfa1/v/t1.0-9/10712921_772370929475908_3290233405600707629_n.jpg?oh=d55fd49aa63562d7cfb9d8d7ce687ccf&oe=54D0F612&__gda__=1421279012_cc231ba6f669e64e51da379c2cc87479

に伺ってきた。

「演出」

については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163512.html

等々,前にも何度も触れた。「前座」をつとめた,さん生師匠のお弟子さん,わさび師匠のマクラの中で,若い頃頭が真っ白になって,話をとばしてしまったところ,それを聴いていた評論家が,

「今日の演出はいいね」

と声を掛けられたというエピソードを語っていた。そう,

どう構成するか,

どこに焦点を当てるか,

誰にスポットライトを当てるか,

で,話の印象はガラリと変わる。面白いのは,

「演出」

という言い方を,されるということを初めて知ったということだ。以前,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163336.html

でも書いたが,

「噺家は演出家である」

ということを言われたのが,当たり前のように,腑に落ちた。

たとえば,今回は,演目は,

笑福亭鶴二師匠が,「祝のし」「井戸の茶碗」
柳家さん生師匠が,「うどん屋」「鹿政談」

であった。

「井戸の茶碗」は,何度か聞いたことがあるが,上方版で聴かせていただくと,話のあらすじはほぼ同じなのに,妙に,印象が変わる。これは,噺家が上方落語の方だというだけではない。小三治師匠ではないが,

「その中に引き込まれるな,っていうのがあるんですね。うんうん,で,その次どうなるの,それからどうなるの,それでどうなるの」

とのめり込ませるには,もともとの筋の流れだけでは,ついて行かない。話のテンポもそうだが,間もある。

笑福亭鶴二師匠が,枕で言っておられたが,

師匠の笑福亭松鶴が,話の間に,入れ歯のカタカタという音が入る,

それも間になる,あるいは,

咳払いも,

台詞を噛むのも,

間になる,ということから言うと,その場で話しているというか,演じている,噺家のもつエネルギーが,聴き手を引きずり込むといってもいいのかもしれない。

その意味では,淡々とした話ではなく,

暑苦しい

くらい(失礼!)のエネルギッシュな噺になっている。上方の芸人の気風なのかもしれない。

ある意味では,

演出

には,メタ・ポジションにいる,落語家の演出家目線だけではなく,それを演じる噺家自身の,

演者

としての,

肉体

というか,

生身

の風貌,振る舞い,人品骨柄等々が,大きく左右する。人情話なのに,息せき切って走ったような感覚が残るのも,新しい,井戸の茶碗であった。

そう言えば,懇親会で,わさび師匠が,

落語は何をやってもいいんです,

という言い方をされ,それと対比して,能は,決まりきった枠を出られない,と能の人が言われていた,ということを話された。それは,言外に,

だから時代から取り残される,

という意味が込められている,というように,僕には受け取れた。もちろん,僕の受け止めに過ぎないが。

何をやってもいいとは,どう演出してもいい,ということでもあるし,どんなネタを挿入しても,異和感がないということでもある。

だから,この時代を生きている噺家自身の体臭が出てくる。

「たとえどんなすごい噺でも,そこから,自分の生活の中の,実体験の何かを思わせる,それによる共感っていうものが大事なんだ」

という小三治の言葉は,落語が,いまもこの世の中で,生きている秘訣に違いない。

参考文献;
広瀬和生『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』(講談社)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

【関連する記事】
posted by Toshi at 04:58| Comment(0) | 落語 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください