2014年11月03日

思想


佐藤正英『日本の思想とは何か』を読む。

著者は,冒頭でこう書いた。

「日本の思想は,のっぺらぼうの布筒のようなもので,ときどき流行する思想が,構造化されないままに,雑然と同居している。欧米諸国におけるキリスト教(ヘブライズム+ヘレニズム)に対応する座標軸が見出せない。日本の思想を通底している持続低音は『つぎつぎになりゆくイキホヒ』であって,祭祀の究極の対象は標榜とした時・空の彼方に見失われている,と丸山眞男は説いている(『中世と反逆』)。優れた洞察であるが,日本の思想の一面に過ぎないのではなかろうか。」

と。では,何をここで提示されたのか。

「日本の思想は,否みようのない私たちの思想である。日本の思想を対象化するとは,私たち自身の思想を捉えることでなければならないであろう。」

その通りである。そして,書き手自身の思想が,そこで問われる。

「日本の思想は奥が深い。『古事記』や『古今集』,説経節,小林秀雄などにおいて語られ明かされている日本の思想を捉えかえす」

という。そして,

「本書は,日本の思想に身を置き,日本の思想を基軸にして倫理学を構築することによって,日本の思想を内から捉えることをめざしている。」

と。そして,

「倫理学とは,ひとである生きものであるところの私たちが,ただ生きているのではなく,よくいきようとする衝迫に駆られて,事物や事象,またもう一人の己である他者に出会うありようを,総体として明かし,対象化する」

という。まあ,

いかにいくべきか

を突き詰めて考える,ということに,つづめてしまえばなる。しかし,自己完結させるのではなく,おのれの生きている文脈の中で,それを考えようとすれば,

人はいかにいくべきか,

だけではなく,

この世の中はいかにあるべきか,

この世界はいかにあるべきか,

そのために,

おのれはいかにあるべきか,

に至るほかはない。日本は,周縁の後進国であり,常に,中国の文化圏の中で,そして明治以降は,西欧文明との格闘の中で生きていかざるを得ない。

そのとき,日本の思想という限り,その最先端で,闘ってきた思想が例示されなければならない。しかし,本書にあるのは,

神話から始まって,和歌,仏法,儒学,

と,ただ流れを追っているとしか思えない。そして,その流れを辿るだけでは,

のっぺらぼう

としか印象に残らない。個人的に言えば,尖った思想家はいたはずだ。それを,ただ思想の流れを著述する文脈の中に埋もらせて,顕現させるのを怠っている。思想という限り,しかも『日本の思想』という限り,世界に伍する尖りがいるはずだ。しかし,

伝承としての倫理思想

として,

〈もの〉神の祀り
花鳥風月
仏の絶対知
武士

文明

と並べたトピックを見る限り,どこにも尖りがない。たとえば,仏法に絡めて,聖徳太子を挙げているが,十七条の憲法そのものが剽窃の寄せ集めであり,有名な,「和を以て尊しとなす」は,『論語』『礼記』から持ってきているのであり,これを思想の中に取り入れること自体が,いささか,著者の見識を疑う。

逆に,それなら,たとえば,

紫式部
親鸞
荻生徂徠
本居宣長
夏目漱石

と並べてみれば,思想の尖り度が違うはずである。所詮,思想は,個のものである。おのれの,

いかにいくべきか

を突き詰めた果てにしか,思想としての昇華はこない。この著者は,そのぎりぎりと追い詰めていく思想のエッジ,というか断崖の縁が見えていない。

むしろ,こう問うべきだ。我が国に,

世界と拮抗できる思想はどこにあるか,

と。ぼくなら,

親鸞

にまず指を折る。大乗の他力を極限まで突き詰め,ついに,往生のために祈ることを計らいとし,

すべての計らいをてばなし,

「善人なほもて往生をとぐ,いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく,『悪人なほ往生す,いかにいはんや善人をや』。この条,一旦そのいはれあるに似たれども,本願他力の意趣にそむけり。」

とまで言い切る,宗教そのものの放棄に至る極限に至りついた。これ程の宗教家は,世界にはいない。

参考文献;
佐藤正英『日本の思想とは何か』(筑摩選書)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:32| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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