2014年11月10日

秀頼


福田千鶴『豊臣秀頼』を読む。

「天下人の血筋を誇りながら,凡庸な性格が豊臣家を滅亡させた」

と言われることが多い,豊臣秀頼に焦点を当てた。

「父は天下人豊臣秀吉。母は戦国大名浅井家に生まれた茶々(淀)。ゆえに,祖母は天下人織田信長の妹市であり,信長は大伯父にあたる。」

血筋から言えば,貴公子である。しかし,過去,彼は,あまり好意的には受け止められてこなかった。

「秀頼の死から四百年となる現在でも,秀頼や生母茶々に対する人々の視線は陰湿で悪意に満ちており,徳川贔屓の江戸っ子でなくとも,凡庸な秀頼と淫乱な悪女茶々の所業によって豊臣氏は自ら滅亡したのであり,自業自得である,というような評価が根強く残っている。」

という著者の,秀頼復権の書である。

大坂夏の陣で,細川忠興は,

「秀頼は大阪小人町近辺まで出陣し,先手は『伊藤丹後・青木民部組中』であった」

と書状で伝えている。この地は,

「徳川方の小笠原秀政・忠脩父子が討死し,弟の忠政…も瀕死の深手を負った激戦区である。物語を辛口で評することで知られる忠興が,激戦区への秀頼の出陣を疑わなかった点は,秀頼が大阪城本丸の奥に隠れて何もしなかった軟弱者であるかのようなイメージを否定する…」

と著者は書く。『大坂御陣覚書』によれば,

「秀頼は,梨子地緋縅の甲冑を着し,天王寺へ出張するため桜御門を出て,父秀吉から相伝した金の切割(縁を切り裂いた幟)二十本,茜の吹貫(吹き流し)十本,玳瑁(鼈甲亀)の千本槍を押し立てて。太平楽と名づけた七寸(約二百十二センチ)の黒馬に梨子地の蔵を置き,引き立てていた。」

という。秀頼は,六尺五寸(百九十七センチ)という大兵だった(『明良洪範』)というので,さぞや見栄えがしたであろう。小柄であった秀吉の,初期の合戦,宇留間(現在の各務ヶ原鵜沼)攻めの時の様子を,『武功夜話』ではこう書く,

木下藤吉郎様の出立は,黒かわの尾張胴,黒鹿毛の馬に跨り,御馬印は麻一枚,薄萌黄,御印は無し。」

と。天下人の御曹司の姿は,天と地と程違う。

「秀頼の教養は,当代一流の学者を招聘して習得し,高められた。慶長二年(1597)五歳の折に早くも『南無天満大自在天神,住吉大明神』の神号を墨書して残しているが,それ以後も『豊国大明神』をはじめ,『龍虎』そのほか多数の筆跡があり,神号仏号・古歌・漢詩だけでも相当な達筆が現存している。和歌・連歌・詩歌・漢詩等をはじめ,貞永式目・憲法・二十二代集・職原抄・禁秘抄・徳失鏡・貞観政要・三略・呉子・四書五経等,法制・文学・儀式・故実・兵学・儒学等に及んだ…。」

もちろん武芸に関しても,

「肥満のために馬にも乗れなかったかのように伝えるものもあるが,天下人を狙う者として,そのような育てられ方はしなかっただろう。事実,弓術の六角義弼,槍術の渡辺内蔵助糺,薙刀・棒・長刀を使う穴沢盛秀,居合術の片山久安が秀頼のそばに仕えており,彼らから『武』に対する教育をうけていたと考えられる。ほかにも,鷹狩・茶道にも親しんでいたことがわかっている。」

そして,十四歳の時,『帝鑑図説』を復刻出版した。

「慶長十一年三月に西笑承兌が寄せた『帝鑑図説』跋文には,『秀頼公が朝夕にこの書を手にして読み,本書の出版を命じたもの』と出版の経緯を説明し,『妙年に及ばずして学に志し,老成人の風規がある』と秀頼の人となりを称賛している。」

これは,家康が,同じ時期に,家康が「伏見版」「駿河版」といわれる政治学の書籍を古活字本として出版していたから,「秀頼版」の出版で,家康に抵抗するという秀頼の意思と同様,『帝鑑図説』が,明王朝で十歳で即位した万暦帝の帝王学教育のために編纂された例になぞらえて,

「為政者として秀頼を立てていく」

ということを表明する秀頼周囲の人々の思惑もあったと,著者は推定する。

こうした秀頼の真骨頂が発揮されるのは,「勢いのある堂々とした書風」と「格調高い気品を感じさせる」家康への書状である。

原文は,

今度若鷹兄鷹
一連弟鷹二聯拜
受被思召寄御懇
意之至難 申尽
別而自愛無比類
存候猶尊顔之時
御礼可令申候
 卯月六日 秀頼

大御所御方にて
 誰にてもご披露

読み下し分は,

今度,若鷹,兄鷹一連・弟鷹二連を拝受,
思し召し寄せられ,御懇意の至り,
申し尽くし難し,別けて自愛比類なく存じ候
猶尊顔の時,御礼申せしむべく候
恐々謹言

著者は,これは,お礼にかこつけた秀頼の挑戦状と見る。

「書状の形式は,家康の側近に披露を依頼する形式の披露状という丁寧なものだが,子細に見ると,さまざまな書札礼上の工夫がなされているようにみえる。」

として,次のように分析する。

「まず,敬意を示すべき相手の行為を表す用語の前には,一字程度の空白をあける闕字という方法が用いられる。この場合は,家康の好意を示すのは,三行目の『被思召寄』の箇所である。ここに闕字を用いるならば,「被 思召寄」というように,『思』の地の前に一字程度の空白がなければならないが,それがこの書状にはないどころか,意識して詰めて書かれたようにみえる。」

他方,

「秀頼の行為を示す四行目『難申尽』は,『難 申尽』となっていて,心持ち『難』と『申』との間に,闕字があるともないともいえないような微妙な空白がある。さらに六行目には秀頼の行為を示す『存候』があるが,これも五行目の字配りを整えて改行し,自らの行為を示す用語が行頭にくるように工夫されている。行の途中で改行すれば平出という書式になるが,それでは目立ちすぎるので,自然な形で『存候』が行頭に来るように字間を整えたものと考えられる。」

と。表向きは披露という厚礼の形式をとりながらも,

「秀頼自らの行為には敬意を表し,家康の行為には敬意を表さないという書札礼である。…これを一瞥したときの家康の表情はいかばかりだったろうか。」

と,著者は想像する。この文書の意図を詳らかにするには,

「七行目の『御礼可令申候』を『御礼を述べます』と訳したのでは,秀頼の意図を十分に伝えるものとはならない。」

として,

「ここは,『御礼を述べます』ではなく,『御礼します』という,少し広い意味で訳す必要がある。加えて丁寧語の『令』があるので,『御礼をします』を丁寧に訳せば,『御礼を致しましょう』になる。」

とこだわる。それは,

「秀頼と家康の間では,贈答を詳しくみると,そこには互酬関係が成立していないことに気づくからである…。贈答儀礼に関しては,進物を贈られたら相応なものを贈り返すという互酬の関係(両敬)が成立しているかどうかが重要なカギになる。返礼がない場合は片敬であり,返礼をしない側が上位,進物をしただの側が下位に置かれる。」

両者の関係を見ると,たとえば,二条城では両者の互酬関係が成り立つのに,

「大坂城では,家康が派遣した名代に対する互酬の関係は成立しているが,家康が贈った銀子千枚に対する秀頼の返礼が確認できない。」

つまり,大坂城における贈答儀礼には,秀頼は,家康への返礼をしない片敬で対応したのである。この大坂でのやり取りの四日後が,上記の手紙である。

「本来ならば,大坂城への名代派遣や家康の進物に対する礼を述べるべきところだが,そのことには一切触れずに,次回お会いしたときにこちらの御礼を致しましょう,とやり返したのである。」

つまり,

「家康に直接会ったときに返礼すると伝えることで,近く第二戦をいたしましょうとの宣戦布告である。再度の会見で秀頼が家康のもとに出向く可能性がないとはいえないが,返礼をしない秀頼の態度をみる限り,家康が大坂城に挨拶に出向くように求めているようにみえる。」

と。会見を終えた家康は,腹心の本多正純に,

秀頼は賢き人なり

と言ったと言われる。しかし,著者はこう書く。

「ここで秀頼が家康に本気で詰めの勝負に挑む決意をさせてしまい,三年後の大阪冬の陣の引き金を大きく引いてしまったことは,若気の至りとはいえ,爪を隠し通せなかった秀頼の勇み足だったといえなくもない。」

しかし,考えてみれば,家康の裔,徳川慶喜は,鳥羽伏見の敗退を知ると,おのれひとり側近とともに,部下を見捨てて江戸へ逃げ帰った。それに比べれば,秀吉の子,わずか二十一歳の若武者は,父とおのれの名誉は守っているのである。

参考文献;
福田千鶴『豊臣秀頼』(吉川弘文館)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:25| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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