2014年11月11日
見立て
見立ては,語源は,
見+立て
で,
決める,
つまり,
見て,善し悪しを決める,
という意味てある。たとえば,
母の見立ての帯
とか
医者の見立て
といったように。しかし,語義を辞書で引くと,意味は,
送別,見送り,
見てよしあしを決めること。また,見て物を選定すること。
とあり,その中には,
選定,鑑定
(医者の)診断。
遊客が合い方の遊女を選ぶこと
がある。たとえば,
伝統的に,自分の目で見てから選ぶことを「見立て」と言った。 江戸時代,呉服などを自分の目で見て選ぶことも「見立て」と言った。また,伝統的に,医者が病人を見て(診て),あらかじめ定められたどの分類に当てはまっているのか選ぶことも「見立て」と言う。つまり現代では「診断」と呼ばれている。
しかし,以上のそのほかに,
なぞらえること
という意味がある。ここでの関心は,この意味の「見立て」である。たとえば,芸術表現の一技法として,
和歌・俳諧・歌舞伎・戯作などで,ある物を別のものと仮にみなして表現すること。なぞらえること。
その意味の流れから,見立てには,
趣向。思いつき。考え。
という意味が出てくる。究極,見立ての面白さ,その趣向を競う,という意図か。
なぞらえるは,
なぞるの未然形継続反復のフが加わった「ナゾラフ」の下一段活用
とある。
異なるものを共通点があるものと見立てること
とある。見立てとなぞらえるが同義反復になっている。
なぞらえるは,
準える
准える
擬える
と漢字を当てる。
「擬」は,本物に似せて作ったものや事柄。「手+疑(まねる・なぞらえる)」
「准」は,準の俗字。法律用語。水野平らかさを基準とする
「準」は,水準器。水平を基準とする。下にたまった水の水面を基準として高低を揃えることを示す。
落語の沢庵を卵焼きに「見立て」るのは,ほぼ「準える」だが,これは,
アナロジー
あるいは
メタファー
と言い替えられる。このあたりは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163440.html
で書いたことがある。
基本的には,アナロジー(ここでは,「見立て」とほぼ同じ意味で使っているが)には,
「~と見る」見方,
「~にする」仕方,
「~になる」なり方,
の3つがある,と考えている。
●「~と見る」は,
見えているものを何かと同一視することである。芝生を緑の絨毯,群衆の逃散を蜘蛛の子といった,何かを別のモノやコトと見る,何かに別のモノをダブらせることである。これは視線の変換である。たとえば,それにあたるのは,
つもり/ごっこ/仕立てる/喩える(例える)/引用(代用・転用・兼用・併用・応用)/代理・代表/つなげる(並べる)
メタファーはここに含まれる。メタファーについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163573.html
で触れた。メタファーつまり,隠喩は,
あるものを別の“何か”の類似性で喩えて表現するものだが,直喩と異なり,媒介する「ようだ」といった指標をもたない(そこで,直喩の明喩に対して,隠喩を暗喩と呼ぶ)。したがって,対比するAとBは,直喩のように,類比されるだけではなく,対立する二項は,別の全体の関係の中に包括される,
と考えられる。たとえば,
わたしの耳は
貝の殻
海の響きを懐かしむ
(ジャン・コクトー「わたしの耳は貝の殻」)
では,耳と貝は,対立しつつ,共通項を持つ別の同一グループの一員とみる視点がなければ,対比がそもそも成り立たない。まあ,「~と見る(みなす)」見立ての一種には違いない。
●「~にする」は,
一方を他方と同じにすることである。そう見えるようにする,そう見えるように変える,そう見えるように置き換える。これには,同じ大きさ(サイズ,嵩,規模,長さ,広がりの似たもので比較してみる),同じ重さ(重量で似たものを対比してみる),同じ格好/同じ形状,同じ性質,同じ次元等々といった,ミニチュア,模型,箱庭,プラモデルといったものが当てはまる。これは対象の変換である。たとえば,それにあたるのは,
模型(モデル)/かたどる(カタチにする)/なぞる(写す)/触媒(媒介)/補う(補足)/伸縮/集散(離合)/増減/開閉/置き換え(回転,転倒,裏返し)/ずらす(スライド)
等々である。
●「~になる」は,
見る側,する側から,される側に代わることである。そういう立場になる,その役割を引き受ける,そのモノになる,その場に立つ,といった身振り,ジェスチャー,声帯模写,形態模写等が当てはまる。ゴードンの擬人的類比,空想的類比はこれに当たる。自分の変換である。
この3つの見立ては,随所で使われている。
芸術の分野では,「見立て」は,対象を他のものになぞらえて表現することである。別の言い方をすると,何かを表現したい時に,それをそのまま描くのではなく,他の何かを示すことによって表現することである。例えば,和歌,俳諧,戯作文学,歌舞伎などで用いられている。
日本庭園ではしばしば(あるいはほとんどの場合)なんらかの「見立て」の技法が用いられている。たとえば枯山水では,白砂や小石(の文様)が「水の流れ」に見立てられる。
落語では,扇子や手拭いだけを用いて様々な情景を表すが,これも一種の見立てである。たとえば扇子を閉じた状態で,ある時はこれを煙管に見立て,煙管として使ってみせ,又あるときはこれを箸に見立て,蕎麦をすすってみせる。これについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163440.html
とで触れた。
あるいは箱庭といって,小さな,あまり深くない箱の中に,小さな木や人形のほか,橋や船などの景観を構成する様々な要素のミニチュアを配して,庭園や名勝など絵画的な光景を模擬的に造り,楽しむものがある。江戸時代後半から明治時代にかけて流行した。類したものに,盆景,盆栽がある。
盆栽は,周知のとおりだが,盆景というのは,お盆の上に土や砂,石,苔や草木などを配置して自然の景色をつくり,それを鑑賞する。盆景は庭園,盆栽,生け花と同様に,自然の美を立体的に写実,表現しようとする立体造形芸術である。盆景は,盆石,盆庭,盆山などと呼ばれる芸術だが,形として表現されたのは,日本では鎌倉時代の絵巻物に出てくるのが最初である。 金閣寺,銀閣寺の庭園をつくる時に浅い木箱にその原型をつくったと言われており,これが箱庭の始まりとも伝えられている。
茶の湯でも,見立てがある。千利休は,独自のすぐれた美意識によって,本来茶の湯の道具でなかった品々を茶の湯の道具として「見立て」て,茶の湯の世界に取り込む工夫をした。たとえば,水筒として使われていた瓢箪を花入として用いたり,船に乗るために出入りする潜り口を茶室のにじり口に採り入れた等々。
落語の「長屋の花見」で,沢庵を卵焼きに見立てるなど,われわれは,手持ちのものを,見たいものに見立てて,独自の空間を創り出してきたと言っていい。考えてみれば,かつて,
ウォークマン
は,いつでもどこでもオーディオルームに見立てたと考えることも出来る。見立ては,発想の原点だが,昨今,
いま・ここにないもの
も,手軽に手に入る時代,容易に手に入らないからこそ,手に入った,
つもり
で得られる,想像力の豊かさを失ったのかもしれない。それは,創造力を失い,クリエイティビティ欠如の一因でもある気がしてならない。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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