2014年11月12日

パフォーマンス


佐藤綾子『非言語表現の威力』を読む。

どうも,一読の印象は,「パフォーマンス」「パフォーマンス学」という言葉で受けるイメージとは異なって,本書のほとんどは,表現力,つまりは,プレゼンテーションや,スピーチ,コミュニケーションといったところに矮小化されてしまっている気がしてならない。

もともとパフォーマンス学というものが何たるか知らないくせにと言われそうだが,それなら単にコミュニケーション学というはずである。

さて,まあ,閑話休題。

本書の目的は,「最高の自己表現力」を身につけていただくために,

「人間の自己表現の基本的仕組みについて」
「私たちの言葉が相手にどのような構造によって伝わるか」
「『非言語表現』のメッセージ伝達における『自分をどう見せるか』の方法」
「『自分の気持ちをどう言葉で話すか』という『言語表現』の仕組みと技術について」
「好感的対話を続ける方法」

という構成で語られていく。やっぱり,パフォーマンスではなく,あくまで,自己表現らしい。

しかし「パフォーマンスの概念」図を見ると,人生の,

オンステージ

バックステージ

にわけ,日常生活を,

舞台

と言い,そこで社会の中での役割を演じる

パフォーマー

として生きている,その背景に,

自己分析のための心理学
言語訓練のためのスピーチ・コミュニケーション学,
自己の演技力養成のための演劇学

が必要といい,さらに,世阿弥の,

我見(自分の目)
離見(観衆の目)
離見の見(最高の自分を見せていく見せる目)

まで持ち出す。しかし,ここで言うパフォーマンスは,結局,

スピーチ

プレゼンテーション

演説

といった,設えられた(というか特化された)舞台での,魅(見)せる自分の演出ということに尽きるらしいのである。

それはそれでプレゼンテーションやスピーチのスキルとして有効には違いないが,そこに焦点をあてるために,そこでどんなに魅力的なスピーカーでも,その舞台を降りた人生という舞台で,化けの皮が剥がれれば,それは所詮化粧に過ぎないのではないか,という疑問は終始つきまとう。

筆者は,安倍首相のスピーチや五輪のプレゼンを絶賛する。それ自体は否定はしないが,そこで演じられたものが,結局噓であっても,演じたもの勝ちなのであろうか。

どう自分を見せるか,伝えるか,

の重要性を強調し,そのスキルを具体的に説明すればするほど,反面教師として,

安倍首相のスピーチという舞台から降りた,議会での答弁,弁舌,さらにその弁舌の背景にある現実,

を重ねてみるとき,それに欺かれている人もいるだろうが,ここで言うパフォーマンスが,その程度の,

その場でとにかく聴衆を魅了すればいい,

という程度のことだとすれば,それはパフォーマンスではなく,

弁論術

に過ぎない。孔子の言う,

言は必ず信,行は必ず果,

と言っているのは,そんな見せかけのパフォーマンス(悪い意味で「パフォーマンス」というときのニュアンスを思い浮かべればいい)ではないはずだ。本当のパフォーマンスというのは,

人生という舞台で,

担っている役割をどう演じているか,

ということなのではないか。著者が挙げる,

安倍首相のプレゼンテーション,スピーチ,

オバマ大統領のスピーチ,

ヒトラーの演説,

どれをとっても,その場でのパフォーマンスに限定すれば,確かに優れているかもしれない。しかし,その人が,演じている,あるいは演じなくてはならない,

社会的役割

というパフォーマンスと対比しなければ,本当には,その是非,可否の評価は,不十分なのではないか。それがなければ,かつてギリシャの,

議会,法廷,公衆の面前などにおいて,聴衆を魅了・説得する,あるいは押し切るための,実践的な「雄弁術」「弁論術」「説得術」としての,

レトリック,

であり,悪い意味の,

詭弁家
ソフィスト

と同じことを薦めているようにしか見えない。

もし,その程度のパフォーマンスが,「パフォーマンス学」の領域なら,弁論術と言い替えたほうがいい。

ふと思い出すのは,『孟子』の,

恭者は人を侮らず,儉者は人より奪わず,…悪んぞ恭儉と為すを得んや。恭儉は豈声音笑貌を以て為すべけんや。

を思い出す。恭敬でつつましい人という人柄が,見せかけの言葉つきや笑い顔でつくろえるものか,と。しかし,繕えるのだろう。プレゼンで,明らかな噓を真実として押し通したのだから。そう考えて,パフォーマンス学を学びたいと思うか,胡散臭いと,遠ざかるかは,人それぞれ,生き方,価値観次第だろう。その言に勝敗が短期でついても,所詮,と思うのは,僕の選択に過ぎないのだろう。

ところで,著者の言う意味のパフォーマンスの延長で,第一印象を決めるものとして,

アルバート・マレービアン(おなじみの表記だと,アルバート・メラビアンになる)

の,

ヴォーカル38%
ヴィジュアル(著者は,正確には,「フェイシャル」だと訂正している)55%
ヴァーバル7%

を,日本人対象に,自分の新たな集計で,

コトバ8%
声(周辺言語)32%
顔の表情60%

とし,

「人柄は,二秒でわかる」

といい,そのこつを,ズレを見るのだとして,

第一は,表情。表情が表している感情と声の調子のズレ。
第二は,顔の上下が表している感情のズレ。目元と口の周りのギャップ。
第三は,顔の上半分と下半分の筋肉のズレ。

を挙げる。名人芸にはかなわないが,しかし,人は,一瞬で生きているのではない。

パフォーマンス

を,その場,そのときの,スピーチに限定することで,作りあげられるものと,人生という舞台での素とのギャップの方が,僕には大事に見える。焦点を当てている部分が違う,と言われそうだが。

最後に苦言。「パフォーマンス」と「パフォーマンス学」を商標登録しているという。僕は,かつて,「ロジカル・コミュニケーション」という言葉が商標登録されているとして,厳重抗議を受けたことがある。当たり前に使っている「パフォーマンス」という言葉を,商標登録するという神経というか図々しさということ自体に異和感を懐く。自分が造語した言葉でもないのに,登録したもの勝ちののような所業は,この著者の品性を疑わせる。それを,おのれのパフォーマンスで糊塗できるのかどうか,失った人格的信用の前には,感情も理論も効かないというのが,(プレゼンテーションの)LEP(Logos Pathos Ethos)理論ではなかったのか。

参考文献;
佐藤綾子『非言語表現の威力』(講談社現代新書)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:27| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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