2014年11月16日

信長像


神田千里『織田信長』を読む。

この著者の『島原の乱』には大変お世話になった記憶がある。そんなことで思わず手にした。それと,いくつかの信長本に,神田説の引用もあったことを覚えている。

既に信長については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/406501271.html

http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140828-1.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/400155705.html

等々,何度も触れた。上記の,

金子拓『織田信長〈天下人〉の実像』

にも引用された,神田氏の信長論である。

革命児,

天下統一の野望

等々を,

織田信長観の『箱』

と,著者は呼ぶ。

「様々な学問上の成果の登場にもかかわらず,信長の『箱』は牢固として健在なのが現状である。」

とし,それを,「リセットする」必要がある,とする。で,本書は,

「いままでひろく知られてきた信長像を再検討してみたい。」

として,

第一に,本当に『革命児』であったか,を考えるために当時最大の伝統的権威である将軍や天皇に,どう対処したか,まずは,足利義昭擁立は,「天下を平らげんとする目的でなされたのか,また義昭は傀儡だったのか等々。ついで,天皇や朝廷にどう関わったのか。利用すべき単なるシンボルでしかなかったのかどうか。

第三に,「天下取り」の野望の持ち主であったのかどうか。

第四に,諸宗教勢力にどう対処したのか。

第五に,信長観の「箱」からでてみると,「従来注目されてこなかった」信長の一面を提示したい。

と狙いを挙げ,こう言う。

「歴史上の人物について考えることは,その時代について考えることでもある。この新たな信長像の可能性を通して,これまで注目されてこなかった,この時代の一側面を書きらかにすることが出来れば,望外の幸せである。」

と。将軍との関係については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/406501271.html

で触れたが,要点を触れておくと,

「流浪の身であり,軍事力の上では取るに足りない義昭が,当時の人々の間で…権威を保持していることは,現代人には理解しがたい。しかしそれがこの時代の,否応ない現実であった」

ということを前提にするなら,

「実質的な軍事力は信長側にあることが明白であるにもかかわらず,信長の行為はあくまで,,義昭への『参陣』なのであり,供奉であると,信長も義昭も認識していた」

ということ。

入京の主役は,「公方様の御上洛にただちに供奉する」と信長が書いているように,あくまで足利義昭である。「少なくとも世間への建前として,信長はあくまで,自分は足利義昭の上洛に従うお付の者であると公言」していた立場である。信長,義昭以外の第三者からみても,「この軍事行動の主役が足利義昭その人であった」ということ。

三好三人衆に,義昭が急襲されたとき,信長は,わずか十人前後の騎馬武者だけで,岐阜から駆け付けたが,「この人数では戦力として物の数ではない。独力で三人衆の攻撃を撃退した義昭の軍勢に比べて,ほとんど軍事的な意味はないといってよいであろう。にもかかわらず,信長は,一目散に義昭の許に馳せ参じたのだとすれば,信長の行動は将軍義昭への,命を捨てての忠義を自ら実践し,周囲へもアピールするという意味しかないといってよい。」このとき,尾張,美濃,伊勢,近江,若狭,丹波,摂津,河内,山城,和泉などの諸国から,八万人の武士が,信長上洛の知らせを聞いて上洛した,という。将軍にアピールしたのである。

信長と義昭が不和となったとき,五カ条の規定が作成されたが,一般には,信長が義昭に迫って将軍の実権を獲得し,傀儡化したとする証拠とみられているが,それでは,「なぜ,義昭の天皇や朝廷に対する業務の怠慢を信長はチェックできないのか,諸国の武将らに馬をねだるような御内書を,信長は検閲できなかったのか,信長の許可なしに不適切な論功行賞が成し得たのか,が説明できない」。

越前朝倉討伐は,「上意」による若狭国武藤討伐のためであり,それを背後で操っていたのが朝倉氏と判明したための越前侵攻というのが,「信長の言い分」であり,「姉川合戦も,戦場に足利義昭を迎えて,その上覧の下に行われるはずであった。」また「三好三人衆を討伐すべく行った出陣も,信長,公家衆と奉公衆,美濃衆らがまず出陣し,…足利義昭が出陣している。要するに,信長軍は将軍の軍隊として行動していた。」

朝倉・浅井氏と延暦寺とが和睦をしているが,ほぼ敗勢のなかで信長が和睦できたのは,「足利義昭の力が大きかったことは否めない。当初から義昭と信長との対抗関係を想定して,義昭が朝倉,浅井の蜂起の背後で糸を引いていた,という穿った見方もなくはないが,勘ぐり過ぎだとおもわれる。義昭は信長の後ろ盾として大きな力をもっており,信長にとっては,そうした意味で大事な主君だった。」

信長・義昭が決定的に決裂したのを示すが,「十七条の諫言」であるが,ここで述べているのは,当時の将軍に求められる資格である。「第一に天皇や朝廷に厚く奉仕すること。第二に首都である京都の領主として,家臣や京都住民の信頼にたる存在であること,配下の者への恩賞も処罰も公正なものであるべきこと,そして世間から芳しくない評判を受けるような真似はしないこと,である。」信長は,「義昭に,あなたは家臣や京都住民の尊敬に値する将軍ではない,と宣言したのである。」

信長は,義昭の離反を「御謀反」と表現しているが,その後も何度も,「公方様のなされようは言語道断であるが,君臣の間のことなので」と繰り返し,再三和睦をはかろうとした。「やはり織田信長は将軍の力を必要としていたのだろう。足利義昭に復帰の希望があれば,受け入れてよいとの意向を表明し,さらに義昭復帰が無くなった時点でも,その子供を代役に考えていたことが分かる。言い換えれば可能性のある限り,信長は将軍の臣下として振舞うという立場を追求していたと考えられる。」

そして,こうまとめる。

「実質的には実力で足利義昭を圧倒しているのに,主君を立てると主張しても欺瞞ではないか,と現代人には思えるところである。しかし中世には家来が実力行使により,自分の主張を主君に認めさせることが公然と行われていた。将軍に譲歩を迫るために,幕臣たちが軍勢を率いて将軍御所を包囲する『御所巻』が室町時代には存在した。織田信長が実力で足利義昭を圧倒したとしても,主君を重んじなかったとは必ずしもいえない。むしろ信長は,将軍をあくまで主君として立てる,というカタチで収めかった」

と。この将軍との関係性から伺えるのは,既存の権威をないがしろにしたり,傀儡として利用するというだけではない姿勢である。それは,天皇・朝廷との関係にもうかがえるはずである。

正親町天皇に,譲位を迫ったという言い方をされてきたが,「室町時代にあって,天皇の譲位の儀式は『室町殿』すなわち室町将軍家によってとり行われていた」のであり,応仁の乱以降,幕府の衰微に伴い,将軍家にはそれを行うことが出来ず,後土御門天皇以降,生存中に譲位できず,正親町天皇も,譲位が叶うとは思っていなかったのだろう。信長の申し出で,「後土御門天皇以来,望んではいたが実現しなかったのに,奇特なことであり,朝廷再興の時がきた」と喜んでいた,という。「信長は,足利義昭が将軍の役割を放棄した後に,その代役を買って出たのだと考えられる」。

軍事的威圧と解釈された馬揃えについても,当時の公家には,「お祭り騒ぎ」と受け止められていたし,正親町天皇自身が,「馬揃えの最中に一二人の使者を信長のもとに派遣して,『これほど面白い遊興をみたことはなく,喜びも一方出なかった』との言葉」を伝えており,そうみると,その後,左大臣に任命するとの申し入れに,「織田信長は,譲位の儀をとり行ってから,左大臣を受けたい」と回答したことの意味も,変わってくる。

伝統的権威を重んじる姿勢に鑑みるとき,「天下」の意味が,あらためて問われてくる。これも,すでに明らかにされているが,天下は,全国の意味ではない。

一つは,将軍それ自身,あるいは将軍の管轄する政治などか『天下』の語で表現されている。

二には,京都を含む五畿内(山城,大和,摂津,河内,和泉の諸国)を「日本の君主国」と呼び,その君主を「天下の君主」と呼んだ。

したがって,「天下布武」とは,「正統な将軍の足利義昭の威令が『天下』すなわち五畿内にいきわたること」であり,信長自身,「足利義昭が京都を回復してから『天下』は平和になった」と認識していた。

「天下布武」が,五畿内ということならば,それを越えた,対武田,対毛利,という戦いは,天下統一でないとすれば,何のための戦いなのか。

本書では,対毛利は,織田と毛利の境目戦争であり,対武田は,徳川と武田の境目戦争,と位置づける。

国郡境目相論

という藤木久志氏の説の援用である。境目については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/396352544.html

で取り上げたが,毛利との関係で言うなら,交渉相手であった安国寺恵瓊自身が,

「当毛利家と和睦すれば,平和になるのですから,天下を握っておられる方にとっては上分別というものでしょう」

と評価していた,という点から,毛利を打倒して中国制圧を考えてはいなかった,と著者は見る。ただ,少し疑問なのは,美濃にしろ,伊勢にしろ,近江にしろ,若狭にしろ,丹波にしろ,加賀にしろ,越前にしろ,いずれも以前の戦国大名は,ほぼ壊滅させられている。革命児のイメージから,今度は,余りにも逆に振れ過ぎているのではないか,仮に天下は,当初はそういう意図であったにしろ,どこかで変わったのではないか。でなければ,信長死後,秀吉の全国制覇に,地続きですんなりつながっていかない気がしてならない。

では,結果として,著者は,どんな信長像を提示しているのか。

「我こそ天下人,という野望を前提とする」見方から変えたのは,次のような信長像だ。

義昭が京都出奔後の毛利への手紙に,「将軍家のことは,総ての事について広く評議をおこない」とあるところから,「信長が諸大名との共存をめざし,合議の許天下のありようを決める」と宣言しているとみる。そして,甲斐平定後の天正10年に,関東諸大名に対して,「惣無事令」を発したことをもって,天下人としての将軍の役割である「和睦勧告」を果たそうとしていたとみる。後年,家康が,「信長御在世の時に候ごとく,各々惣無事尤もに候」という,北条に申し入れたのを傍証としている。

世間の慣習を省みず,自由闊達な天才児というよりは,「信長ほど世間の評判に細やかに気を使った人物は滅多にいない」というイメージである。

この点は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/406501271.html

で谷口克広氏も強調していた点だ。例の,十七箇条の諫言にみられる「足利義昭への非難は,恩賞が不適切なために,あるいはその裁定が不当であるために評判を落としている,元号が不吉だとの評判に耳を貸さない,この時節に兵粮米を売り,評判を落としている,宿直の若衆などに依怙贔屓すれば天下の評判はさんざんである,他人の評判をきにしないから『悪い御所』とよばれるのだ,と総て世間の評判を顧ない…!に集中している。」

勝頼が天神城の支援をしないで信濃国の評判を落とし,離反を招くと想定していた信長にとって,世間の不審を招いたのが佐久間信盛らの追放の原因ともしている。

さて,しかし,

「臣下に馬をねだるとは,主君としてみっともないからおやめください」と義昭に諫言した信長の脳裏に,若年の折,平手政秀の諌死を思い描いていた,

とまでいくと,少し,革命児から,逆方向に触れ過ぎの,あまりにも当たり前の信長像に見えてならない。

参考文献;
神田千里『織田信長』(ちくま新書)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


posted by Toshi at 05:24| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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