2014年11月17日

天下


松下浩『織田信長 その虚像と実像』を読む。

著者は,史実にもとづいて信長の真実の姿を明らかにする,という課題の他に,「近江の中世から近世への過程をたどる」のを第二の課題としている。思えば,元亀の浅井・朝倉との死闘は,近江が舞台であったし,安土城も近江にある。

さて,本書の意図は別にしても,一番の特徴は,信長の目指したものをどう明確にしたかだろう。

まずは「天下」。

既にいろいろ指摘があるように,「天下布武」の天下は,その印文を推した相手,例えば,信玄や謙信や,輝元が「宣戦布告」とは受け取らない意味,つまり,

「天下布武という言葉は,信長の独善的な解釈ではなく,当時の共通した理解の上に成り立っているもの」

とする指摘は当を得ている。

たとえば,越前出陣に際しての手紙で,「今度之儀天下之為,信長為」と使っていたり,上洛出仕命令に,「禁中御修理,武家御用,其外為天下弥静謐」と使っていたり等々,

「当時の用例から,天下とは天皇あるいは将軍を中心とする伝統的社会秩序を内包する社会領域を指す言葉」

であり,

「具体的には京都を中心とする地域を指すと考えられる。」

当然,転化し,全国制覇ではなく,「京都を中心とした朝廷・幕府などの中央政治の再建」といった意味になる。つまり,義輝暗殺後の混迷した状況を,

「信長は義昭を奉じて上洛し,義昭を十五代将軍にすることによって幕府を再興し,中央正字の安定を図ることを目指ししていた」

と考えられるし,そう手紙の相手の戦国大名も受け止めていた,と見なすのが妥当である。だから,

「全国制覇などという荒唐無稽な夢物語」

ではあり得ない。それでは,手紙を見た対手に喧嘩を売っていくことしかならないのだから。

では義昭を追放して以降も,「天下布武」を使い続けるが,その意味はどう変わったのか。

それには,

「いまだ足利義昭が京都にいる段階では天皇-将軍というラインで『天下』成敗の権限が信長に委任されているが,元亀四年(1573)に足利義昭が京都を逐われてからも信長は『天下』という言葉を使用しており,将軍義昭の存在を欠いても信長が『天下』を成敗するという立場をとっている。この場合の論理については,…毛利輝元宛書状案に,『天下被棄置上者,信長令上洛取静候』との文言が見られ,将軍が天下を捨て置くからには,代わって,信長が上洛し,天下静謐を果たすと述べているのである。あくまで将軍の代わりに『天下』を成敗するという姿勢」

である,というところに見ることが出来る。

たとえば,長篠の合戦については,「今度三州敵悉討果,弥天下為静謐候」と述べ,荒木村重征伐に協力するよう指示した中川清秀宛ての朱印状では,「荒木事非我々一人,為天下無道族候」等々の文言に見られる。

著者は,こう書く。

「『天下』とは,あくまで天皇を中心とする世界であり,その平和を乱すものに対する成敗を,信長は自身の戦争の大義名分としているのである。かかる論理は上洛当初から一貫している。変化しているのは,上洛当初は将軍義昭を媒介とし,将軍より委任を受けるという形をとっているのに対し,将軍が京都を逐われてからは,それを自身の果たすべき責務と主張している点であろう。」

そして,その転機は,

「天正三年一一月に右近衛大将に任ぜられた」

ことと推定する。

「右近衛大将は常置の武官の最上位の官職であり,王朝の守護者としての地位にあたる。かかる官職を得たことが,将軍を媒介としない,天下委任の論理を制度上保証したのではないだろうか。」

この論理が,そのまま秀吉に使われていくことを思うと,結構有効な視点なのかもしれない。そうみたとき,同じ年の一一月に,織田家の家督を信忠に譲り,尾張,美濃の領国を譲ったこと,翌天正四年から築城が開始された安土城が,合戦の拠点ではなく,政治シンボルとして,天下人信長の城として,天下を統治する城として築かれ,さらに,直線の大手門,天皇の行幸を想定したこと等々と,つながっていくのである。

それは,逆に言うと,それまでの「天下」とは「天下」の意味が変った,ということなのであり,

「信長が天下統一を具体的に意識し始めるのは自身が天皇との直接結びつきを追求し始める足利義昭を追放して以降であり,さらにいうと天正四年の安土築城開始前後と考えられよう。」

と。その視点から見れば,

「信長の戦いの論理は一貫して天下静謐,すなわち天皇の平和を実現すること」

という名目であったと言っていい。これなら,秀吉の全国制覇,,九州征伐や小田原征伐の大義名分となった惣無事令ともつながる。

最後に近江について,著者は面白い指摘をしている。

「信長は近江の在地社会を温存しつつ,上級支配を展開したのであり,近江の中世を根本的に解体したわけではない。」として,こう述べる。

「近江の中世的在地社会が解体されるのは豊臣政権期,天正十三年の国割を契機としてのことである。豊臣政権のもとで大名権力が国替えを強制されるなか,在地領主たちも主君とともに在地を離れるか,武士を捨てて農民として土着するかの選択をせまられるのである。」

と。しかしである。

「それでも中世近江の自立性が完全に失われることはなかった。江戸時代において,地域支配の末端を担ったのは村落共同体であるが,それは中世の村落自治の伝統を受け継ぐものといえよう。近代においても明治初年の地方支配の再編の中で,大区小区政が採用されず,旧村の系譜を引き継いだ区制が施行された。そして現代において,滋賀県では地方文書が家文書ではなく区有文書として伝わっている地域が多い。地域の『おとな衆』が文書を年番で管理するこういう所有形態は,まさに中世近江の惣村における共有財産の管理システムを想起させる。」

その是非は,置いても,この在地社会のしぶとさには,脱帽である。

参考文献;
松下浩『織田信長 その虚像と実像』(淡海文庫)





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http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:46| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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