語り
先日,駒塚由衣さんのアトリエ公演「郭夜公隅田白波(ほととぎすすみだのしらなみ),
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=618975584878145&set=pcb.618975594878144&type=1&theater
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=621181244657579&set=pcb.621181334657570&type=1&theater
に伺ってきた。僕は,よくわからないで,勝手に,
一人芝居
だと思い込んでいたが,実は,
語り
であった。柳家さん生師匠の落語会の懇親会でお知り合いになった方で,勝手に俳優さんなのだから,とそう思い込んでいた。
ネタは,講談では『八百蔵吉五郎-天明白浪伝』,古典落語でもおなじみの人情話らしい。どちらにも疎いので,まあ,初体験である。
落語と語りはどう違うのか。これも,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163336.html
で書いたが,そこで伺ったかぎりでの僕の印象は,
「語りは,その声音もしぐさも,その人物になりきって語る。そのとき,語る人は,その物語の語り手であり,登場人物A,B,C…であることになる。その語る人は,一方では監督でもあるが,役者でもあり,ナレーターでもあるという使い分けをしている。
噺家は,そうではないという。あくまで,噺を伝えている。一般的には「落語」と書いても「おとしばなし」と読んでいたそうだから,落語の基本は「一が落ち,二が弁舌,三が仕形(しかた)」と言われ,その人になりきる演技ではなく,噺の流れと構成のつくり方にある。」
ということらしい。その意味では,女優さんである駒塚 由衣さんにとっては,なりきりは,得意である。確かに,落語の仕草や振る舞いに比べて,格段に,動作ははっきりと違いを演じ分けておられた。その意味では,
一方で語り手として,当時の時代状況や,場面の切り替え,場面説明のナレーションの部分と,
各登場人物毎の演じ分け,つまり,登場人物としての台詞があり,
さらには,語り手が語る場面を,ときに茶化すように,駒塚由衣さん自身というか,その語りの世界全体を俯瞰する批評的な眼の位置での介入,
とが,語り分けられていく。話そのものを知らないせいもあるが,場面展開ごとに,つまり,芝居で言う暗転のような切り替えごとに,語り口が変わり,居ずまいが正され,次場面を期待する,という具合で,小三治師匠が,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/405538611.html
でも書いたように,
(二ツ目の噺を聴いて)「世間で面白いって言われている人でも,あんまり面白くないっていう人が多かった。それより,面白くないけど,この人の噺って聴いてると,その中に引き込まれるな,っていうのがあるんですね。うんうん,で,その次どうなるの,それからどうなるの,って思えるんですよ。どうもね,最近の若い人は,ウケないといけないと思っているらしい……まあ私もそうだったかな。でも,ウケなくっていいんです。」
という趣旨のことを言っておられてたが,それと同様,まさに,
「その先どうなる」
と,引き込まれたことは確かだ。語りとして,あるいは落語と比較して,僕には,うまいかへたかを判断するすべはないが,もうひとつ,小三治師匠がいておられたことで,
「『その了見になれ』。了見になれってのは,その人になり切れってことですけど,その人になり切ると,ウチの師匠(小さん)が言うには,その背景が見えてくるっていうんですよ。だから背景が見えてこないうちは,なり切っていないんだな。」
という言葉があったが。まさに,そう語り分け,演じ分けられていたのは確かだ。
随分前,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163343.html
に書いたように,俳優石丸幹二さんが,ピアノと映像(影絵)をバックに,「語り手」をやっておられたのと較べると,たったひとり,遥かに,語り自体の力が問われる,語りだけの語り世界なのである。そこでは,
「この語り手は,書かれた物語を外から語っていた。彼自身が,語り手として,語られる世界に向き合って,自分がそれを眺めている語りになっていない。逆に言うと,彼の語り出しそのものによって,世界が現前するような語りになっていない。彼は,台本を読むように,語り手にならず,読み手として,もちろん棒読みではないが,語っているだけだ。」
と批判的に書いて,ファンの方から突っ込みや叱責を受けたことがあるが,それとは違い,何のバックもなく,語りが独立して,まさに,
講談師
や
噺家
と同じく,その場でのご自分の語り口だけで,人を引き込むというチャレンジをされている,というのがちょっと痛快ではあった。同じネタを落語や講談で聴いたわけではないので,比較はできないが,明らかに目につく違いは,アクションだと思う。アクターだけに,坐った上半身だけで,演じ分けていく,その動作が,他と比べて大きいことだろう。それは,俳優さんがやることのメリットだし,台詞の使い訳も,多分そうなのだろう,
ただ,個人的に少し気になったのは,素人の感想だが,各場面での演じ分けの後の,いわば,暗転におけるナレーション,そして,次の場面へと切り替わる,その転換,の切れ目の間が,もう少し欲しい。居ずまいを正されるのが,その合図になっているのだが,どうだろう,もう一呼吸,観客を,ちょっとじらすくらいの,間が欲しい,という気がした。
場面に感情移入していて,不意にナレーションが入っても,芝居の暗転と違って,視覚的に強制的に切り替えられないので,その間が,欲しい。ここは個人的だが,あれっ,と観客に一瞬戸惑わせる位の長めの間,があってもいい。いや,間そのものの長短が,話のテンポになるのかもしれない。その意味では,短いのがあり,長いのがある,という,間のバリエーションがあってもいいのかもしれない。
参考文献;
広瀬和生『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』(講談社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
この記事へのコメント