2014年11月22日

検証


平山優『検証 長篠合戦』を読む。

本書は,同じ著者の『長篠合戦と武田勝頼』の姉妹編,というより,同書で漏れた,史料の検証と合戦における両軍の戦力,物量の比較検討部分を独立させている,という。

従来の信長・徳川の三千挺の鉄炮が三段撃ちで,武田騎馬隊を撃破したという通説に対し,三千挺への疑問,三段撃ちへの疑問,騎乗しての戦闘への疑問等々の批判が相次ぎ,通説が揺らいでいる。

本書は,

両軍の鉄炮装備
武田騎馬衆の運用

を詳細に検証し,通説及び通説批判をも,正していく。

まず史料について,

『甫庵信長記』が,慶長十六,七年の初版から寛永元年晩に至るまで,徳川方武士,武田遺臣などの指摘を受けて,記述の改訂,増補を繰り返していた,という事実,つまり同時代人の目の検証を経ている,という意味で,

「あまりにも『甫庵信長記』を貶めてきたのではないか。」

と著者は言う。その意味で,『信長公記』の太田牛一,『甫庵信長記』の小瀬甫庵,それに『三河物語』の大久保忠教も,

「戦国合戦を知る生粋の戦国人である。」

として,同時代の三人の史料は,利用しなくてはならない,といい。「三千挺の鉄炮と三段撃ち」を頭から否定する姿勢ではない。思えば,卓見ではないだろうか。あわせて,いわくつきの,

『甲陽軍鑑』

も,「山本菅助」が実在していたように,またその言葉遣いが,室町時代の古語がふんだんに使われていること,甲斐・信濃の方言が多用されていること等々から,史料として,再評価されていい,と見なす。

こうした史料を背景に,検証を進めていく。

まずは鉄炮及び鉄炮運用について。

「織田信長といえば,鉄炮の大量装備と,その天才的な戦術公案により天下統一へ向けて急成長を遂げたというイメージ」が強いが,ところが,信長と鉄炮についての研究は,少ないし,史料も希少なのだという。それどころか,

「信長自身が発給した文書を調べてみると,鉄炮に関する記載は意外なほど少なく,管見のかぎり,それはわずか一五点を数えるのみで,ここからは信長が大量の鉄炮を装備していた形跡を読み取ることは難しい。むしろ,発給文書における鉄炮関係の記事にかぎっていえば,信長と比較して後進性ばかりが取りざたされる武田氏のほうが,鉄炮の保有を示す記事が登場する時期や文書数も,遥かに彼を凌ぐ。」

という。しかし,『信長公記』を中心に丹念に調べて,いわゆる三段撃ちについて,すでに,天文二十三年(1554)に,今川方の村木城攻めで,信長は敵城の狭間に鉄炮の射撃を集中させたが,そのときに,

鉄炮取りかへ

射撃したという記事が,『信長公記』にある。著者は,

「鉄炮を取り換えながら射撃するのは単なる交代ではなく,銃手はそのままで,後方に控える数人が弾込めをして手渡すという,いわゆる「鳥打ち」「取次」とされる方法」

ではないかとし,この射撃は当時の常識であり,弾込めの時間ロスを補う工夫として早い時期からあった,と見なす。ここに,交代射撃の嚆矢を見ようとする説をたしなめている。

鉄炮隊の編成は,信長の直属の旗本鉄炮衆五百の他,各武将の保持する鉄炮とはわけられており,

「諸手之鉄炮」

という言い方に見られるように,随時各武将から鉄炮放(銃兵)を提出させ,臨時編成する。長篠合戦でも,『信長公記』には,細川藤孝から鉄炮足軽100人,筒井順慶から鉄炮衆50人と,長篠に出陣しなかった武将から強力鉄炮を,参陣している諸将の部隊から鉄炮を引き抜き,臨時に鉄炮衆を編成した。

「織田領国全域(まだ敵勢力が存在したため,必ずしも必ずしも全域を支配下に置いていないところもあるが,それは尾張・美濃・伊勢・近江・越前・若狭・大和・和泉・摂津・河内などに及ぶ)に動員をかけたとすれば,たちまち数多くの鉄炮があつまったことであろう。信長が大量に鉄炮を集めることが可能であった秘密は,武田氏を凌ぐ領国の規模に合ったともいえるだろう。」

として,『甫庵信長記』の,

「兼ねて定め置かれし諸手のぬき鉄炮三千挺」

は,「事実を正確に伝えている」と著者は見る。さらにおもしろいことに,長篠の古戦場で出土した「鉄炮玉の玉目(銃弾の重さを匁で表記したものをいい,大きいほど口径が大きくなる)」から,

「信長が使用した鉄炮の大きさは,実に様々で,決して統一されたものではなかったことがわかる(このことは,信長による大量注文生産にもとづく旗本鉄炮衆や鉄炮衆編成という大方のイメージに再考を迫る事実といえよう)。」

とする。つまり,「諸手抜」の鉄炮,

「つまり,信長の家臣たちが個々に所持していたものを寄せ集めた事情を反映している」

ということを意味する。その鉄砲玉の原産地は,70%が国内,30%が輸入という。戦争激化に伴い,国内だけでは賄いきれなかったことの反映である。

では武田氏はどうかというと,弘治元年(1555)の川中島合戦で,300挺の鉄炮衆の編成をするなど,重要な戦線では重点配備されていた。また陣立て表などをみるかぎり,旗本鉄炮衆があり,加勢の鉄炮衆がありで,基本は,織田と同じく,「諸手抜」で編成されていたことが分かる。

それでは,武田氏と織田・徳川とでは,鉄炮運用において何が違っていたのか。

「それは,鉄炮・魂薬・弾丸の入手,確保の問題に尽きるだろう。」

と著者は見る。

「(武田方が)深刻であったのは,家臣に鉄炮と玉薬を多く準備させようとしても,それが困難であったことが大きい。」

鉄炮を重視しても,畿内やその近国を掌握している信長に比して,入手するのが難しく,敵国である駿河商人を頼ったり,猟師を動員したり村々の所有する鉄炮を召出させたりしていることが,文書などから伺えるという。はては,鉛不足から,

「悪銭を鋳つぶし鉄砲玉への転用に踏み切った」

ことが,文書及び弾の成分分析から,読めるという。つまり,

「武田氏は,玉薬と弾丸の補充に苦慮しつつも,懸命にその不足を克服しようとしていたことは十分に窺い知ることができる。」

だから,上田原の合戦で,武田信玄と戦った村上義清は,鉄炮50挺を投入したものの,一挺につき玉薬と弾丸が三包しかなく,それを撃ち尽くしたら,鉄炮を捨てて斬りこむことになっていた,と『甲陽軍鑑』に出ているそうだが,武田も似た状況ではないか,と著者は見る。

物量の圧倒的差が,武田敗戦の遠因に違いないが,その他に,馬防柵で待ち構える織田・徳川に,無謀に勝頼は突入させた,と通説は言う。

「武田軍の重臣層は,土屋昌続を除き,馬防柵際で戦死した者はほとんどおらず,敗北が決定的となり勝頼が退却を命令した後に戦死している」

という事実から,撤退戦の難しさを示していても,敗戦の結果であって原因ではない。

「武田軍が総崩れになった合戦は,長篠合戦だけである。そして,総崩れになったが故に,武田軍は追撃戦を受け甚大な被害を受けた。」

しかし,著者は,

「不利な条件が重なったにもかかわらず,武田軍の攻勢が早朝より午後二時までの長時間に及んでいたことや,三重の馬防柵をすべて打ち破った場所もあったこと(主力攻撃が実施された徳川軍陣前),鉄炮の弾幕をかいくぐり生き残った武田軍将兵が,少数ながらも徳川軍の陣地に切りこんだとされること,最初の攻撃局面では武田軍が相手を押していた場面もあったことなどを勘案すれば,武田軍は,攻撃目標の徳川軍撃破を目指したが,それを援護する織田軍鉄炮・弓隊を沈黙させられず,もともと寡兵であったがゆえ組織的戦闘の継続が困難となり敗退したわけである。当時の武田氏にとって,織田・徳川軍に匹敵する軍勢召集は,領国規模からいって不可能であった。」

とまとめている。これが彼我の国力差による冷静な分析なのだろう。ただ,特筆すべきは,

「武田軍の将兵は,長篠合戦で織田軍の鉄炮衆に数多くの味方を討たれ,危機的状況に立たされていたにもかかわらず,馬場信春らの指揮官を捨てて決して逃げなかった」

と記録されていることだ。そこには,

「矢玉飛び交うただ中で敵と渡り合うことを『場中の勝負』として称賛し,さらに敵を討ち取ることが出来れば,それを『場中の高名』と呼称し,一番鑓,二番鑓に次ぐ戦功」

とする,勇敢さを誇りとする気風があった,とする。そして,「武田勝頼だけに敗戦彼の責任を負わせること」について,

「そもそもこうした高名の基準と名誉の在り方を確立し,将兵達に浸透させた」

武田信玄その人にまで遡るしかない。領国の限界,領国の貧しさ,将兵の質も含めた,総てを背負った武田氏の負の遺産そのものなのかもしれない,と著者は見ているのである。

最後に,合戦をこう総括する。

「①織田・徳川と武田軍には『兵農分離』と『未分離』という明確な質的差異はなく,ほぼ同質の戦国大名の軍隊であり,
 ②合戦では,緒戦は双方の鉄炮競合と矢軍が行われ,やがて接近した敵味方は打物戦に移行し,鑓の競合と『鑓脇』の援護による戦闘が続く,
 ③打物戦では敵が崩れ始めると,騎馬衆が敵陣に突入(『懸入』『乗込』)し,敵陣を混乱させ,最終的に敵を攻め崩す,
 ④戦国合戦では,柵の構築による野陣・陣城づくりは一般的に行われており,それ自体は特異な作戦ではなかった,
 ⑤合戦において,柵が敷設されていたり,多勢や優勢な弓・鉄炮が待ち受けていたりしていても,敵陣に突撃するという戦法は,当時はごく当たり前の正攻法であった,」

だから,

「武田勝頼が長篠合戦で採用した作戦は,ごく普通の正攻法であり,鉄炮や弓を制圧し,敵を混乱させて勝利を目指すものであったと考えられる。しかしそれが成功しなかったのは,勝頼や武田軍将兵が経験してきた東国大名との合戦と,織田信長のそれとの違いであったと思われる。それは,織田・徳川軍が装備した鉄炮数と,用意されていた玉薬の分量,さらには軍勢の兵力の圧倒的差という形で表れたと考えられる。」

それがすべてであろう。

なお,姉妹編『長篠合戦と武田勝頼』については,別途紹介したい。

参考文献;
平山優『検証 長篠合戦』(吉川弘文館)





今日のアイデア;
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posted by Toshi at 05:46| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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