2014年11月23日

勝頼


平山優『長篠合戦と武田勝頼』を読む。

平山優『検証 長篠合戦』の姉妹篇になる。同書については,昨日,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/409358085.html?1416602810

で触れた。本書は,勝頼の出自にかなりのペースを割く。それは,勝頼が背負っているものが,長篠合戦に踏み切る勝頼の決断にかなりの影響を与えているからだと,僕は思う。

従来,長篠合戦は,

旧戦法の武田勝頼対新戦法の織田信長

と評され,それは,

信長軍の三千挺の鉄炮の三段撃ち対武田軍の騎馬戦法

と言われたきた。しかし,そもそも,その「三千挺の鉄炮の三段撃ち」や「騎馬戦法」に疑問だ投げかけられ,近年それが否定されつつある。

一方の武田勝頼評は,変らず散々である。それは,長篠合戦の大敗が,その契機である。で,本書で検討しなければならないのは,

「武田勝頼という人物の生い立ちや政治動向と,長篠合戦の背景を探ること,加えて巷間膾炙される長篠合戦像の成否」

であると,著者は書く。

勝頼は,同時代にどう評価されていたのか。

まずは,武田遺臣が編纂した『甲陽軍鑑』では,

「強すぎたる大将」

と称されている。因みに,「馬鹿なる大将」は今川氏眞,「利口すぎたる大将」は武田義信,「臆病なる大将」は上杉憲政,とされている。それは,

心強く,機転がきき,弁舌明らかで智恵がある,

と称する。しかし,そのために,

心強いために弱気を嫌い,慎重な行動を求める家臣をとうざけ,主君の意を汲むものばかりになる,

という。武田遺臣たちにとって,勝頼は,そういう人物だったということであり,決して「暗愚」ではなかったのである。

また,織田信長は,

「勝頼は信玄の掟を守り,表裏を心得たる恐るべき敵である」

と書状で書いているし,勝頼滅亡後,その首級と対面した際,

「日本にかくれなき弓取りなれ共,運がつきさせ給ひて,かくならせ給ふ物かな」

と,述べたと言われる。上杉謙信も,

「勝頼は片手間であしらえるような対手ではない。信長は,畿内の戦略を一時中断してでもその鋭鋒を防がなくては,ゆゆしき事態を招く」

と,信長に認めている。しかし,

「勝頼が家督を担った十年間は,讒人を登用し,親族の諫言には耳を貸さなかった」

との,穴山梅雪(勝頼の従兄弟)の評もある。で,著者は書く。

「だとすれば,そうした資質の持ち主であった勝頼を後継者に指名した武田信玄の政治判断にこそ,問題の萌芽があった」

し,それが,勝頼の出生以来背負っていた宿命である,と。本書では,

「勝頼が信玄の家督を相続したことが,彼自身に如何なる影響を与え,その思考や行動を規定したか」

を追求しなくてはならない。それが,長篠合戦で,「会戦を回避する選択肢」を選ばす,「あえて決戦を決断した」判断の背景を探ろうと意図している。

武田勝頼,この名に,一つの歴史的背景がある。

「勝頼だけがその諱に武田氏の通字『信』ではなく,諏訪氏の通字『頼』が冠せられている。」

ここに,勝頼の背負っているものが現れている。つまり,

「勝頼は,信玄の息子ではあるが,生まれながらにして諏訪氏を継ぐべき人物とみなされていた…。」

のである。本来継ぐべき義信が信玄との対立で,自害に追い込まれた結果に過ぎない。それだけに,

「武田家当主の地位を,諏訪氏の勝頼が継いだことに対し,複雑な心情をとりわけ甲斐衆がもっていた」

と推測させる逸話が,『甲陽軍鑑』にある。信玄の寄合衆をつためたものが,勝頼の武運長久を祈願して,百日間籠ったところ,霊夢を見て,

「諏方明神 たへる武田の子と生レ 世をつぎてこそ 家をうしなふ」

という歌を聞かされたという。

こうした家中の雰囲気の中で,信玄の死によって,勝頼は家督を継ぐが,信玄の遺言が重い足かせになる。それは,

①勝頼は嫡男武王丸信勝が成人したら,速やかに家督を譲ること(勝頼はそれまでの陣代である),
②勝頼が武田軍を率いるときは,「武田家代々ノ旗」「孫氏ノ旗」など武田家当主を象徴する一切の事物の使用を禁ずる。
③諏訪方法性の兜の着用は認める

というものである。信玄にどんな慮りがあったにせよ,

「この遺言は勝頼に政治的に大きな打撃を与えることになったといえるであろう。それは信玄の意図を超えて,一族,家臣たちの中に,勝頼はあくまで信勝家督までの陣代(中継ぎ)にすぎないという認識を不動の物にしてしまった可能性が高いからである。」

この足枷が,勝頼に,避けられたにもかかわらず決戦へと長篠合戦を決断させたことに影響があったはずである。

「武田家中における権威を名実ともに確立させること,これが勝頼の真意であり,信長,家康を撃破して,父信玄の『3ヶ年の鬱憤』を晴らすことが,自身の『本意』達成でもあり,諏訪勝頼を,武田勝頼に昇格させるもっとも確実な方法だったのであろう。」

と,著者は推測し,

「長篠合戦の敗因は,勝頼と信長・家康との間にだけでなく,勝頼と武田家中の中にも伏在していた」

と,結論づけている。

少し先を急いだ,長篠合戦の争点の中,2つだけ,著者の論点を紹介しておきたい。

まずは騎馬隊について。

結論だけ書くが,軍役定書などをみると,武田,上杉,北条といった東国の軍隊に共通してみられることだが,

「騎馬武者は,『貴賤』(身分)に関わりなく,鎧兜や手蓋,脛楯,指物などを着用した完全武装の出で立ちであった。このことは,騎馬武者だけを一見しただけでは,武田軍では彼らの身分が判然としなかった。」

その他に,

「武田・上杉・北条氏の軍隊には,『一騎相』『一騎合』『一揆相』という身分の低い武士が多数おり,彼らは文字通り騎馬にて参陣した」

さらに,

「『(甲陽)軍鑑』などにしばしば登場する『馬足軽』『馬上足軽』」があり,これは,「家臣たちが軍役定書によって引き連れた家来たちのうち,騎馬の『被官』『忰者』を『馬足軽』と読んだことが想定される。」

だから,

「武田軍では,騎馬武者は侍身分や一騎合衆のような小身の侍などのみで構成されていたわけではなく,被官,忰者,傭兵,軍役衆など,実に多様な身分の人々によって構成されていた」

したがって,

「武田軍には物主指揮下の騎馬武者が多数存在していた」と著者は考える。その例として,岩村衆を挙げる。

「岩村衆は総人数千五百八十余を数え,…鑓六百余本,鉄炮五十余挺,弓四十余張,歩者二百五十余人,馬上五百余騎…,以上のことから,岩村衆は,…騎馬衆は…五百余騎が統括されており,その兵力は岩村衆では,鑓六百余人に次ぐ…。」

つまり,騎馬隊は存在するのであり,だからこそ,

「信長が柵を構築させたのは,単に武田の軍勢を警戒してというだけでなく,騎馬衆にとりわけ注意を払っていたからにほかならない。」

のである。では,待ち構える敵陣への突撃は愚策であったのか。著者は言う。

「(信長の例などをも挙げながら)以上の事例を見ると,鉄炮や弓矢などを装備して待ち構える敵陣に対して,突撃を仕掛ける攻撃法は,当時としては正攻法であった可能性がある。鉄炮があるのに,それをものともしないで突撃を仕掛けたという記録は,意外に多くみられる。武田勝頼が軍勢に攻撃を命じ,武田軍将兵がそれを実行に移したのも,当時としてはごく当然の戦法だったからであろう。武田軍が敗れ去ったのは,織田・徳川の鉄炮装備が,東国戦国大名間で実施された合戦では経験したことのないほどの数量であったことや,敵陣に接近するまでに多くの将兵が戦闘不能に陥り,肉薄して織田・徳川方の鉄炮を沈黙させるに至らなかったことにある。」

そして,だからこそ,「長篠合戦の戦法そのものを批判する記録は一切ない」のだろう,と。

「長篠合戦での武田勝頼の戦法を無謀と捉える一般の考え方は,戦国合戦の正攻法を理解していないことに由来する」

と,著者は言い切る。

次は,三段撃ちである。これも,詳細な論証は省いて,結論だけ取り上げる。

三段撃ちの傍証になるのは,朝鮮の役で,日本軍の鉄炮に苦戦した明軍が,捕虜や投降兵を通じて,導入した,

三段の鉄炮射撃法

を図示している明の『軍器図説』である。では,三列が動いて移動しつつ射撃をしたのか。

「『(長篠合戦図)屏風』には,銃兵が二列に配列されている様子が描かれていた。ところがそれをみると,銃兵の先頭は折り敷き,後列は立射であり,彼らが動いて互いに発射場所を譲り合うような描き方をしていない。これはすなわち,移動を前提とする輪番射撃は,やはり実践では不向きで,採用されていなかったからであろう。実際の輪番射撃とは,三列に配置された銃兵はその場を動かぬことが原則であり,まず最前列だけが折り敷き,戦闘中は決して立ち上がらぬよう指示され,後の二列は交互にずれて立ち位置を決め,同じく動かぬよう命じられていたのではなかろうか。」

と結論づける。火縄銃の連続射撃では不可避の,鉄炮の不発,次弾装填遅れ,銃身内部の残滓の除去,火の再点火などの火縄銃の不備を補うために,信長は,直属の御弓衆によって,脇を固めたのではないか,と著者は推測する。これが,従来の三段撃ちの批判への再批判になっている。。

結局勝頼は,敗退し,多数の重臣を失った。しかし,武田遺臣にとって,これが武田家滅亡の原因とは考えていないらしいのである。

「武田家滅亡の直接の要因となったのは,上杉景勝との甲越同盟締結による北条氏政との甲相同盟破綻と,北条・織田・徳川同盟の成立にあった」

との見方が根強い。しかし,それも,勝頼の政治センスの問題なのかもしれない。かつて,上杉謙信は,

「信玄は,織田・徳川両氏と敵対したということは,あたかも蜂の巣に手を突っ込んだようなもので,せずともよいことを始めてしまった」

と。それは,

「如何に老獪で百戦錬磨の武田信玄であっても,これを収拾するのは容易ではない」

と謙信が認識していたことになる。信玄においてそうなら,ましてや勝頼においておや,であったのかもしれない。しかし,それもまた勝頼にとって,負の遺産であった。

参考文献;
平山優『長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文館)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:43| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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