2014年11月26日

最前線


日本史史料研究会編『信長研究の最前線』を読む。

副題に,「ここまでわかった『革命児』の実像」となっているが,14人の競作のせいか,必ずしも理論的な背景が一致していない憾みがあり,旧態依然のイメージから書いている人もあって,結果としては,印象が散漫になった。

「本書は一般の歴史愛好家の方を対象にして,ほかりやすく『現在の信長研究の到達点』を示すべく刊行をけいかくした。」

という。そこで,「第一部 政治権力者としての実像」で,義昭,天皇,官位を扱い,「第二部 信長の軍事的カリスマ」で,桶狭間,長篠,四国政策を扱い,「第三部 信長の経済・文化政策」で,流通・都市政策,宗教を扱う,という流れになっている。

ただ,明智謀反の原因を,あたかも四国政策の変更に起因すると考えているらしい,

「明智光秀は,なぜ本能寺の変を起こしたのか」

のあとに,

「信長は,なぜ四国政策を変更したのか」

を入れることは,この本自体がすでに,それを原因と想定していることを露呈していて,いい感じは持てない。変更していない,とする論文も著書もあり,すこし偏りがすぎ,公平な編集ではない。

しかも,帯にある,「尾張衆ばかりを優遇していた」は,ない。これは,もっともニュートラルで戦国大名研究家の見る信長で,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/390004444.html

で挙げた,池上裕子『織田信長』で強調されていた。そのことは,荒木村重謀叛ともからむ,信長家臣団の構造にも起因することなのに,一本も論文がないばかりか,本文中でも,

「信長家臣団における『勝ち組』『負け組』とは」

でも佐久間信盛にしか言及がない。いささか偏りが過ぎる。

多くは,既に各書で取り上げられている以上の突っ込みはないので,各論文が短いせいもあるかもしれないが,なんとなく上っ面をなぜた感がなくもない。

その中で,気になったのは,

「織田・徳川同盟は強固だったのか」

「信長は,秀吉をどのように重用したのか」

「信長を見限った者たちは,なにを考えていたのか」

の三本だ。

「織田・徳川同盟は強固だったのか」で面白いのは,書札礼から,両者の関係変化を見ていて,三方が原の戦い時点では,既に信長は,家康を家臣と捉え,長篠の合戦では,家康を国衆に位置づけている。そして,

「家康は,武田氏滅亡後,駿河国を信長から与えられ,知行宛行をうけている。それは主従関係になったことを示している。家康にとって信長は,『上様』だったのである。」

それは,同じ信長家臣団に組み込まれたとすれば,家康は,あきらかに,宿老クラスの秀吉より格下ということになる。そういう位置づけを考えてみることで,小牧・長久手の戦での両者の関係も,また別の視界が開けてくるはずである。つまり,家臣団第一位の柴田勝家を倒した後の秀吉の前では,家康が生き残るための手段は,限られていたはずなのである。局地戦の帰趨は,高く自分を売るのにしか使えはしなかった,ということである。

「信長は,秀吉をどのように重用したのか」で,気になったのは,天下統一を信長が考えていなかったのだとすると,どこで,秀吉がそれを意識したのか,ということだ。僕は,四国派兵の段階前後で,信長の思考が変わったのであり,家臣,少なくとも宿老クラスの,秀吉,明智光秀,柴田勝家らは,その変化に気づいていたはずだし,そのことは,家臣団の知行宛行にも大幅な変更をもたらすはずだ。それが,光秀に影響を与えたと,僕は想定している。

ここでは,そうしたことは論旨の埒外なのだが,面白いのは,二つである。ひとつは,秀吉分国である中国地方において,

「分国を統治するうえで,権限の分掌をやこなっており,但馬国では弟の長秀(秀長)を竹田城代,因幡国では与力の宮部継潤を鳥取城代に配置し,それぞれに一国の支配を担当させた。」

さらに,「分国形成にともない,秀吉の『軍団』は『家中』に改編されていった。秀吉の軍事力は,蜂須賀正勝・竹中重治・黒田孝高など,信長から付属された与力によって支えられていたが,天正八年(1580)に秀吉が黒田孝高に宛行状を発給したように,秀吉と与力の関係は封建的主従制に転じようとしていた。」

つまり,家康が信長に対して家臣化したように,信長から秀吉に付属された各与力が,秀吉の家臣化していった,ということである。中国方面の秀吉の力が増すにつれて,摂津茨木の中川清秀,池田恒興も,秀吉の与党化していく。このことが,後の山崎の合戦で,摂津勢が,秀吉側の先方をつとめる伏線にもなっている。

もうひとつは,こうした秀吉の権勢は,信長五男秀勝を養子にしたということも効いている,という。

「秀勝は信長の五男であり,羽柴氏は次代以降に織田一門として遇されうる立場も確保したのである。」

天正九年以降,「長浜領で,秀勝単独による判物・掟書・安堵状も発給されるようになった。まず前線から離れた長浜領において,秀吉から秀勝への権力移譲が先行的に進められた」。

それは,さらに秀勝の成長に合わせ,「軍事行動の指揮権,さらに中国地方の分国の支配権も,秀吉から秀勝に順次委譲していく構想」だったのではないか,と想定している。

その是非は別として,信長葬儀の主催にしても,秀勝がいればこそ,名目が立った。改めて,養子秀勝の存在の持つ意味に焦点を当てたところは,興味深い。

「信長を見限った者たちは,なにを考えていたのか」では,信長から切り捨てられた家臣,見限った家臣が,他の戦国大名に比べて,異様に多いことに着目し,前述の池上裕子氏の,「信長から離反した者はいわゆる外様であった」を挙げているが,これ以上に,尾張閥については,掘り下げられていない。そして,別所長治,荒木村重,松永久秀を例にとって,

「松永久秀・別所長治・荒木村重は,信長の上洛や西国への進出に置いて功績があった。しかし,信長はそれらを無視し,彼らと対立する筒井順慶や浦上宗景,傲慢な羽柴秀吉を登用した。そのため,長治や村重は家臣や与力関係にある国人に対する面目を潰された。そのうえ,信長の目指した政策は,在地の国人や百姓との関係を損なうものであった。」

だから,この三人は,「与力や国人や家臣,百姓に対する支配を信長に脅かされるなかで,自らの将来が見えたからこそ,信長を見限らざるを得なかった」。しかし,外様ではない,「一益・勝家・秀吉は最初から信長の影響下で家臣団を形成し,信長より付けられた与力によって成り立っていたため,信長を見限ることはできなかった」とする。

確かに,その面はあるが,家臣団内部の権力争いでもある。見方を変えれば,家臣団が固定し,既得権化していなかった,というふうにも取れる。それに慣れないものにとっては,結構厳しい自他との戦いを強いられるはずである。

ハンデキャップが大きかったはずの秀吉が,自分ほど家中で,寝る間も惜しんで奉公したものはない,と言っていたことに較べると,この分析は,少し甘い,という気がしてならない。

参考文献;
日本史史料研究会編『信長研究の最前線』(歴史新書y)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:07| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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