「創造の始まりは自己が解くべき問題を発見することであって,何かの答を発見することではない」
とは清水博氏の,いつも引く言葉だが,「問」の,
門は二枚の扉を閉じて中を隠す姿を描いた象形文字
という。そこから,
隠してわからない,
という意や
わからないところを知る出入りする入口,
という意を含む,という。「問」は,
口+門
で,
わからないことを口で探り出す
という意味になる。「神意を尋ねる」という意味も含むようだ。「とふ」は,
「問+フ」
で,訪問した家の戸口に立って,人の安否を尋ねる意。その意味で,「訪う」とほぼ重なる。
「訪」の「方」は,
両側に柄の張り出たすきを描いた象形文字。左右に貼りだす意。「言+方」で,右に左にたずね歩きまわる意。
判らないことを尋ねまわる,ということと,問うこととは,ほぼ重なるようだ。
しかしここでは,「当たり前としていることを」改めて問うという意味で考えたい。清水さんは,こうも言っている。
「自分が解くべき問題を自己が発見するとはどういうことでしょうか。それは,『これまで(自己のいる場所で)その見方をすることにおおきな意義があることを誰も気づいていなかったところに,初めて意義を発見する』ということです。」
と。これを情報の視点から見れば,グレゴリー・ベイトソンの言う,
「情報の1ビットとは,(受け手にとって)一個の差異(ちがい)を生む差異である(のちの出来事に違いを生むあらゆる違い)。そうした差異が回路内を次々と変換しながら伝わっていくもの,それが観念(アイデア)の基本形である。
情報とは,(付け加えるなにかではなく)選択肢のあるものを排除するなにかである。」
平坦な地にわずかな図を見つけること,と言っていい。それは,別の視界がひらかれることにほかならない。
思うのだが,騙されないためには,
なぜ,それはなぜ,それはなぜ,
と,ある点に焦点を合わせて,三回なぜと問うといいらしい,ということを,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/409638012.html
で書いたが,それは,自分が,ついつい当たり前と思ってしまうことについて,強制的に,というか,機械的に,
なぜを三回繰り返す,
あるいは,
何があったのか(起こったのか)
どうしてそうなったのか
と問いかけてもいいが,そう問いかけることで,答えがあってもなくても,その答えを,自分の中で想定する,というように,人間の脳はなっているらしいのである。
もちろん,主体的に問いが生まれるにこしたことはないが,仮に主体的に問いがない場合,機械的でも問いを出した方がいいと思うのは,たとえば,
なぜ,
と問うことで,平坦で,何の疑問の漣もない景色に,「なぜ」と問うた瞬間に,理由か,目的か,意味か,を探す目になる。当たり前にしか見えなかった視界を見る見方が変わり,それが見え方を変える効果がある,と思うからである。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/389809186.html
でも書いたが,情報には,
「コード情報」と「モード情報」
がある。言い換えると,情報は,本来は,ことば(数値も含めたコード情報)と状況・文脈(ニュアンスのあるモード情報)がセットになっているはずである。言語化されるには,その人が受けとめた場面や出来事を意味に置き換えなくては言語化されない。つまり,それが丸めるということである。丸められることで,コード情報が本来持っていた文脈,つまりモード情報から切られ,情報は自己完結する。
しかし,その言語を受けとめたものは,その人の記憶(リソース)に基づいて受けとめる。あるいは理解する。その意味の背後に,その人のエピソード記憶や手続き記憶に基づいてイメージを描く。つまり,受け手なりにモード情報と紐づけなくては理解できないからだ。情報を,
・時間的(いつ)
・空間的(どこ)
・主体的(誰)
に紐づけなくては,(コード)情報の自己完結した意味に引きずられる,ということになる。その情報を読むということは,その意味の筋をたどって意味として納得するのではなく,“そのとき”,“そこ”に限定し直すということが,いわゆる腑に落ちるということなのだと思う。本来情報は文脈依存だからである。しかし,情報は,それが持つ文脈から切り離され,コードだけで提示される。読むとは,そのカットされた文脈を想定することでなくてはならない。それが紐づけである。
逆に言うと,その紐づけの仕方のひとつが,疑問なのである。疑問は,その人の知識・経験から考えて,
そうならないはずなのにそうなっているのはなぜか,
という問いかけなのだ。人のもつリソースは,記憶である。記憶には,
・意味記憶(知っている Knowには,Knowing ThatとKnowing Howがある)
・エピソード記憶(覚えている rememberは,いつ,どこでが記憶された個人的経験)
・手続き記憶(できる skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)
がある,とされている。もちろん,この他,記憶には感覚記憶,無意識的記憶,短期記憶,ワーキングメモリー等々があるが,なかでもその人の独自性を示すのは,エピソード記憶であると思う。これは自伝的記憶と重なるが,その人の生きてきた軌跡そのものである。意味レベルでは,誰が言っても同じだが,その言っている言葉の背後にある景色は,人によって違う。疑問は,意味レベルの疑問でなければ,その人の体験に基づく,エピソード記憶からくる。
その記憶のもつ,モード情報とつなげて,異和感を感じているのである。
問いのない読みは,「情報」の意味に絡み取られて,発信者に籠絡されることである。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/404946713.html
でも書いたが,横井小楠が,
学の義如何,我が心上に就いて理解すべし。朱註に委細備われとも其の註によりて理解すればすなわち,朱子の奴隷にして,学の真意を知らず。
というのは,その意味でもある。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
清水博『生命知としての場の論理』(中公新書)
グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(思索社)
金子郁容『ネットワーキングへの招待』(中公新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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