2014年12月07日

幕臣


氏家幹人『幕臣伝説』を読む。

旧旗本の大木醇堂が,明治になって綴った『醇堂叢稿』に,主として,よっているので,前作『旗本御家人』の続編と言えなくもない。前作については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410162722.html?1417810594

で,昨日書いた。

冒頭に,幕臣の鳥谷部春汀『旧幕の遺臣』によって,幕臣気質について,こう触れている。

「徳川武士共通の短所は,余りに個人的にして共同団結の精神に乏しきにあり。故に旧幕の遺臣に人材少なからずと雖も,彼等の協力によりて成りたる何等の事実を見ず,また彼等はかつて偉大の計画をなしたることなし。」

と辛辣である。春汀によれば,旧幕臣は個人としては様々な長所を備えているが,協同団結して事を成し遂げるという点では,人材に乏しい,というわけである。

春汀は,勝海舟を評して,

「一代の巨人なりしと雖も,その性格は個人的にして,首領の器に非ざりき」と,手厳しい。海舟にして然りとすれば,後は推して知るべし,

「才能抜群であっても,なぜかリーダーシップとしての資質をかいている」幕臣たちの生き方は,春汀によれば,

「かくの如く個人的にして共同団結の精神に乏しきがゆえに,また概して野心少なく平和の生活を好む。見よ幕府の遺臣にして,権力の争奪,利益の取り遣りの為に,他人を排してまで進むの行動に出づるものありや。自家の功名富貴を求るがためには,如何なる危険をも冒し,如何なる面倒をも忍ぶ意力を有するものありや。余はこれを見ざるなり。」

という体たらくになる。では幕臣醇堂は,どんな生き方を求めていたのか。

「照り降りなく,平均して,吉も無ければ,凶もなく,いつも同様と謂ふが人間世の最上策にて,富まず貧しからず,楽しみもなく苦しみもなく,笑ふことはなく泣くことなく,喜ばず憂へず,伸ず屈せずして生を全ふし,おはりたきものなり。」

かような安穏無事が一番という処世術も,

「ここまで徹底すると驚愕を覚える。」

と,著者。維新後の貧困にあえぐ,落ちぶれた旧幕臣の開き直りか,と思いきや,醇堂は,れっきとした旗本の嫡男でありながら,

「両番士の俸禄は,その並高と称するものは三百俵を以て例とす,これより身を起こして要路の顕職に昇るもあれども,一代限りの立身出世は,予これを欲せざる也」

と書き,

「それよりも結局三百俵を代々維持して,其子其子と部屋住より召出されて,御小姓組・御書院とかはるがはるに勤続相承くることこそ無上の幸福にて,そのうへに亦幸慶とすべきは与頭・組頭に昇りて,又其れより御手先・御持頭を経て,御槍奉行か西丸御留守居に上れば,これこそ至大の幸福也」

とまで書く。「御槍奉行」か「西丸御留守居」かとは,老齢の旗本の閑職で,勘定奉行や町奉行のような要路につくのではなく,名誉の閑職がいい,というのである。

ここから浮かぶのは,

「英雄的気質や企業家精神とは相容れない幕臣たちの寡欲で現状に甘んじる気質」

である。どうやら,しかし,これは,幕臣だけではなく,多くの日本人の気質に重なる気がするが,どうだろうか。

本書は,そんな幕臣の中から,奇人・変人と,余り日の目を見ない役職を拾っている。刃傷沙汰あり,御庭番あり,吉原遊女との心中あり,奇人学者あり,狂歌の蜀山人あり,三味線名人ありと,多士済済だが,変わり種を,いくつかピックアップしてみると,

大奥の御伽坊主

という坊主頭の年配女中がいた。常時四人ほどいたと言われる。何をするのか,というと,大奥の広敷添番を勤めた山中共古が語っている(三村竹清『本之話』)。

「大奥の坊主といふは,女にて髪を剃りたる坊主なり,将軍の閨房の世話をするものにて,御手つき中臈二人並びて,中に将軍休む,其時いろいろのことを将軍にいふといけぬ故,坊主は次の間にうつふして悉く聞き取り,御年寄へ申上るなりといふ」

と。著者は,こんなふうに推測する。

「将軍や世子が何月何日に誰と交接したかは,将軍家の血統を維持するためにもっとも重大な事項であり,正確な記録が残されなかったはずはない。おそらく御伽坊主が記録を作成し,その記録は老女たちによって厳重に管理されていたのだろう。
御伽坊主が次の間で聞き耳を立てたのも,中臈がおねだりなどせぬように監視するためだけでなく,将軍と中臈との間で,子づくりの行為がなされたかどうかを確かめるためだったのではないだろうか。」

当然,若君姫君を取り上げる,お産婆さんもいる。「『恩賜例』という,幕府から「御褒美」や「下され物」が下賜された事例を期したものがある。その中に,「さつま婆」「いつみ」「きん」等々といった,お産婆さんの名がある」。これは,江戸幕府の役職の沿革を記した『明良帯録』にも,載っているという。彼女たちは,代々,

「大奥では中臈と同格で,四谷坂町に拝借地があり,…五人扶持を給され」

ている。しかも,『恩賜例』に出るくらいだから,将軍夫妻から,「折々多額の褒美を頂戴」し,「暮らしぶりは裕福だった」らしいのである。『校合雑記』によると,吉宗の時代,

「長福丸(家重)を取り上げた『御祝儀』として,薩摩姥に白銀五十枚と樽肴,巻物が下され,小次郎様(田安宗武)のときは銀二十枚と樽肴,巻物だった。不審に思った吉宗公が役人に尋ねると,先代のときから御嫡子を取り上げた産婆には銀五十枚,御次男様以下は二十枚と決まっておりますと答えた。
すると,吉宗公,『樽肴と巻物が減少するのは理解できるが,銀は御産御用を務めた者の労をねぎらって下賜するものである。長男であろうと次男であろうと,産婆の苦労に違いがあるとは思えない,長男のとき同様五十枚を与えるように』と仰せられ,薩摩姥は長福様のときと同様,銀五十枚を頂戴した。」

というエピソードがある。しかしも彼女たちは,将軍家御用達のお産婆として,大名家にも出入りしていたという。なかなかの収入と言っていい。

もう一つ下ネタで,「公人朝夕人(コウニンジョウシャクニンと読んだらしい)」という役職の幕臣がいる。定員は,一名。代々世襲という。役目は,

「君辺に侍して御装束の節,御轅の跡に御筒を持也。便竹といふ。君御用道具の第一なり。俗に装束筒と云う。」

とある。将軍が礼服(束帯)を着て参内(内裏に参上)し,装束が邪魔で小用ができないときに,小便を受ける筒状の尿瓶を差し出すのである。しかし,参内は,寛永十一年(1634)の家光以降なく,二百三十年後の家茂のときは,公人朝夕人を従えていない。つまり,この役目は,江戸初期にその役目を終えているのに,代々上田家が世襲されていたのである。

役人の仕事には,今も昔も,目的をとうに終えていても続いているものがあるに違いない,と思わせる役目である。

参考文献;
氏家幹人『幕臣伝説』(歴史新書y)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:24| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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