2014年12月10日

寓話


前川知大作・演出『新しい祝日』を観た。

http://www.geigeki.jp/performance/theater071/

寓話だと思う。寓話とは,

比喩によって人間の生活に馴染みの深いできごとを見せ,それによって諭す事を意図した物語。

つまり,物語自体が,何かのメタファになっているということである。あるいは,寓意,寓意とは,

ある意味を,直接には表さず,別の物事に託して表すこと。また,その意味

とある。ちらしには,

「ある会社,働き盛りの男が一人で残業している。男はふと不安に駆られる。なぜここにいるのだろう,と立ち止まる。見慣れた社内を見渡していると,いつの間にか,道化のような,奇妙な男がいる…」

と。ピエロの風体の男は,もうひとりの自分と見ていい。いわば,自己対話の中で,自分の過去らしいところから,もう一度,自分をたどり直す,寓意とみていい。

で,たとえば,そんな中に,意味なく,ストレッチとジョギングというウォームアップだけを繰り返する場面がある。何のために,何を目指してそれをしているのか,という問いは,それ自体を目的化する当たり前の中で,聞き流される。問いかけた『真実』役の男は,つまはじきされる。主人公は,それをつまはじきする側に回る。

これが主人公の過去か,それとも単なる想像かは別として,この寓意はわかりやすくはある。

流れに盲目的に乗るか乗らないか,それを批判的にあるいは問いたてる側に回るか回らないか,これ自体を,現代(現在のというべきか)の寓意ととってもいいかもしれない。

その意味では,何のために,何をしようとしているのか,また,自分は何のためにそこにいるのか,それは自分のいる(べき)場所なのか,その場所はどこか,等々を問い直せという主題であるように見え,「新しい祝日」も,そういう寓意から,出ているのだろうとは想像がつく。

しかし,観終えて,何となく不得要領である。チラシの言っていたほど,「立ち止まった」というシーンはなかったから,突然出てきたピエロに,男ともども驚かされたし,ラスト,会社を立ち去るシーンも,ただ残業を終えて帰るのと,特段の区別がつかず,普通の日常に回帰してしまうのか,そうでないのか,というなんとなく,クエスチョンマークがついたままであった。

僕はいつも思うのだが,自分が何をするためにそこにいるかは,そのとき,そこでしか発見できない。いつも,

そのとき
そこ

での現実,現場をスルーしてしまっては,結局現実と渡り合うことのない,ただの頭の中の自己対話以上には出ない。まあ,言ってしまえば,頭の中での自己変革に過ぎない。それは妄想といっても同じだ。その鍵は,そのとき,そこ以外の,過去にも,未来にもないのではないか。

いま
ここで

しか見直しも,再出発もない。過去へ遡っても,そこでは,いまの生き方以上を読み取ることは出来ない。

いまのありようが過去の見え方を決める。

いまの自分の見方,見え方以上のものは,過去で探し当てることは出来ない。観終わって感じたのは,そういう意味で,言い方は悪いが,ちょっとありきたりだなという感じだ。サラリーマンという設定も,子ども時代へと遡る設定も,そうなるだろうと予見できる範囲に収まって,意外性も,スリリングさもない。

サラリーマンだから,何かに流されて自分を失っている,

という設定自体も,ステレオタイプにしか見えない。どんな場でも,生きることは,確かに,妥協だが,妥協抜きで,徹頭徹尾おのれを貫くといっても,貫く自分がなければ,貫けはしない。その自分を,どこかへ探そうという発想自体が,自分探し的に,見える。

いま,ここを逃げてもそういう自分は,どこかにいるはずはない。いま,ここでの,自分との対決をとおしてのみしかあり得ない。それは,いま,ここにおいて,自分は何をするのか,何をするためにここにいるのか,がもっと徹底されるべきだろう。それは。自分の今いる現実との格闘抜きにはあり得ない。

できるなら,組織の中で働くことを通して,何をするために自分はそこにいるのか,そのために何をするのか,を考えるとはどういうことかを,寓意に逃げるのではなく,真正面から受け止めるべきなのではないか。確かに,ある日,

自分は何をするためにここにいるのか,

という疑問がわくことはあるだろう。不安に駆られることもあるだろう。

こんなことをしていていいのか,

という思いがわき出ることもあるだろう。それは,流れの中で,自分を確かめないまま忙しさに紛れて問うことを忘れたためだ,というのも確かだろう。しかし,その問いの答を,過去やまして幼少期,青年期に求めるのは,過去に原因帰属させる発想に思える。

あのとき,ああしなかったつけ,

というように。そうだろうか。

人は,日々選択している。そういう自分のありようは,たったいまも,ここで,選択しつづけている結果である。その選択に疑問がわいたのなら,

いまの,
ここでの,

ありようを問い直すべきだ。いま,ここで選択し直すべきなのではないか。その答えの中に,過去は,いままで見えていたのとは別の姿で見えてくるはずだ。

会社という組織で働くことが,自分を見失うなどという発想から発案されたとは思わないが,サラリーマンという存在を,またそういうあり方を,ちょっと上っ面を撫でているように見えて,いささか異和感を覚えた(ひところリーマンという言い方に感じた感覚である)。作家自体の考えがそうなのかの,最初の着想にすがったためなのか,それはいずれとも決めようがないが。

何度も,

自分の居場所

という言い方が出てくるが,それこそ,いまここでしか見つかりはしない。自分の居場所は,ヒトから与えられるものではない。もしそれを期待するなら,ファシズムへの期待,大審問官への期待であり,おのれを捨てることに等しい。

そんな疑問を感じて,観終わった後,ちょっとがっかりした。寓意が見え過ぎる。そう思って,帰り道,チラシを見て見たら,全登場人物には,

汎一
道化
慈愛
権威
敵意
公正
打算
愛憎
真実

と名前が付けられていることに気づいた。それは,劇中では,振り返ればそうだったかも,という程度だ。いやいや,そもそも自分を裁いてどうするのか。

このネーミングで,一層興ざめしてしまった。

それにしても,自己対話というか,自分の中だけを彷徨している限り,現実とのかかわりが一切ない。現実との格闘のない解決はない。そこにも不満があるのかもしれない。






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


posted by Toshi at 06:00| Comment(0) | 劇評 | 更新情報をチェックする
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