2014年12月13日
意味
忘年会の道筋だったので,ちょっと早めに出て,『H EYES2014 岩河亜紀・久野悠展』,
https://www.facebook.com/events/1505589893049605/?pnref=story
に伺った。ぐるりと観て回りながら,つくづく,自分は意味にこだわるタイプだと思った。確か,柄谷行人に『意味という病』というタイトルの本があったと思うが,病気といえば病気かもしれない。
ただ,僕は仕事柄,ヴァン・ファンジェの,
創造性とは,既存の要素を新しく組み合わせること,
というのにこだわってきた。スティーブ・ジョブズは,それを,
創造性とは結びつけること,
と言った。しかし,これでは十分意図が伝わらない。これを,
本来バラバラで異質なものを新しく意味あるようにむすびつけ,秩序づける
と,川喜田二郎は言った。似ているようで,まったく違う,と僕は受け止める。
意味あるように結びつける,
のである。あるいは,
結びつけることで新しい意味を見つける,
と言ってもいい。あるいは,
意味のある結びつきを発見する,
と言ってもいい。眼目は,結びつけることではなく,意味の発見なのである。機械的に結び付けたら,新しい何かが生まれるのではない,結びつけることで,新しい意味が見つけられなくてはならない。それが,
新しい秩序,
という意味だ。それを,僕は,
視界が開ける,
と呼ぶ。新しいパースペクティブが開ける,のである。意味とは,そういうことである。たとえば,古いが,
ラジオとカセット
を結びつけた,ラジカセは,まったく新しい視界を開いた。しかし,携帯電話にカメラを付けたものは,使うシーンを格段に広げたが,別に新しい視界を開いたとは思わない。ただの多機能携帯電話でしかない。僕は,この多機能と組み合わせの乖離に,創造性との距りを見る。
余分なことを言った。今回, 久しぶりの久野悠さんと,個展以来の岩河亜紀さんの組み合わせが,意外と意味をいろいろ発見させてくれた。その岩河亜紀さんの個展のことは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/407417550.html
で触れた。素人の僕の勝手な思い込みに過ぎないが,今回,岩河亜紀さんの絵が,今までとは違って,少女が単に何となくかわいらしいだけではなく,
物語
を背負ったというか,少女を描いた絵そのものが,その具象そのものが,
メタファー
を,言い方は悪いが,寓意で言うところに似た意味を, 醸し出している気がした。絵の向こうに,意味が見えた気がした。たとえば,タイトル(うろ覚えで申し訳ないが)に,
『なぐさめ』
『すてきなともだち』シリーズ
『おひるね』
『ひみつの場所』
等々にもそれが感じられる気がした。以前もそんなタイトルを付けておられたかもしれないが,もしそうだとしたら,その絵が,タイトルに追いついた(失礼!)という気がする。絵に世界が伴った,というと,ちょっと思い込みが過ぎるか。
この展覧会では,僕には,久野悠さんの,
『あきのいろ』
が一番いい。猫の前に枯葉が,という絵柄だが,その具象が,メタファーになっている。それと並んで,藤の花と猫があるが,作家の方の意図は別にして,絵としては,圧倒的に『あきのいろ』が成功している。不思議に,この絵には,秋がまぎれもなくここにある,という気がした。
絵に意味を見る,
というのは邪道かもしれない。しかし,この絵の隣の,大作,
『梅香に酔う』
と比べると,中心の雀が邪魔して,梅の香が,絵から消えている気がした。絵の構図としては安定しているかもしれないが,『あきのいろ』の猫が邪魔しないようには,この絵の雀はなっていない,そんな気がした。
意味というのは,
意味を読む
とも
意味を見つける
とも
意味をかぐ
とも
意味を探る
とも
意味を解く
とも
意味を託す
とも,違うのかもしれない。素人の自分が,言うのもおこがましいが,
作家の載せた意味
と
観客が作家の描いた絵に見た意味
とは違うかもしれない。しかしいずれもその作品から出ているものなのである。それが違う受け取り方であるとしても,僕が受け取った意味と,作家の意図した意味とがぶつかり合うから,そこに新しい意味が見えてくる。絵を鑑賞する,とはそういうことなのではないか,と感じている。
もし,作家が見ていた世界通りに観客が見たとしたら,その絵の世界は,(作家の内的世界に)自己限定された狭い世界に過ぎない。作家の見せようとした意味と,それとは異なる世界をその絵に見たからこそ,その絵がオープンな世界を開いていくといえるのではないか。その異なる両者の意味の結びつきの中から,新しい世界を開いていくとしたら,その絵は,あるいは,いままでにない新しい世界を見せている,ということになるのではないか。
それで思い出したが,最近,たけしが,初監督作『その男、凶暴につき』を批判したおすぎに,自分の用いた演出意図を披露し,「(おすぎは)全然わかっていない」と言ったそうだが,判っていないのは,たけしの方である。作品は,世に出た瞬間から,作家の意図した意味と観るものの感じた意味とのキャッチボールであり,衝突である。そんな当たり前のことをたけしが弁えていないことに,むしろ驚くと同時に,多分おすぎが,(たけしの)予期せぬ意味を見つけて,たけしがひびったのではないか,と勘繰りたくなる。明らかに,たけしの負けである。「俺の意図はな,…」などとネタを明かさなければ伝わらないのなら,その意図は,映像表現として失敗したのである。
観る側とのキャッチボールがあるから,新しい意味が見える。そんなことを再確認した展覧会であった。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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