2014年12月14日
恙無し
恙無しとは,
病気・災難などがなく日を送る。平穏無事である
という意味で,。「恙無く暮らす」とか,「恙無く日程を終える」という使い方になる。まあ,
息災である
無事である
という意味である。つい,日々是好日が浮かぶが,表面的にはともかく,意味合いが違うようだ。
こだわり,とらわれをさっぱり捨てて,その日一日をただありのままに生きる,清々しい境地,
を指すらしいので,どちらかというと,嵐の日であろうと,何か大切なものを失った日であろうと,悲嘆にくれる日であろうと,ただひたすら,ありのままに生きれば,全てが好日なのだ,という境地を指すらしい。まあ,そうはいかない。
「恙」は,
田野で人をさし,発病させる寄生虫,つつがむし
を指し,
無恙(ブヨウ)
と言うと,
つつがむしにやられない意のことから,無事で日を過ごすこと,
を意味する。『楚辞』から始まって,漢・六朝から,対手の安否を尋ねる手紙の常套句となった,
とある。「恙」には,その他,
病気,やまい,
の意があり,「恙病(ようへい)」で病気,「清恙(せいよう)」でご病気,「恙憂(ようゆう)」で心配,を指した。
ツツガムシ病は,
ツツガムシリケッチアの感染によって引き起こされる,人獣共通感染症のひとつであり,野ネズミなどに寄生するダニの一群であるツツガムシが媒介する,
という。症状は,ネットで見ると,
「ツツガムシに刺されてから5-14日の潜伏期ののち,39度以上の高熱とともに発症し,2日目ころから体幹部を中心とした全身に,2-5mmの大きさの紅斑・丘疹状の発疹が出現し,5日目ころに消退する。倦怠感,頭痛,刺し口近くのリンパ節あるいは全身のリンパ節の腫脹も多く見られる症状である。重症例では,髄膜脳炎,播種性血管内凝固症候群や,多臓器不全で死亡する」
こともあるとされるので,結構大変である。そう考えると,「無恙」の意味がちょっと重い。
「恙無し」の日本語の語源には二説ある。
ひとつは,「ツツガムシの被害にあうことがない」で,無事という意味
いまひとつは,「継ぐ+継ぐ」で,「ツギにツグ」つまり,継続するという意味。つづけるも同源とする。
しかし,別の説もある。
「手紙などで,相手の安否などを確認する為の常套句として使われる『つつがなくお過ごしでしょうか…』の『つつがなく』とは,ツツガムシに刺されずお元気でしょうかという意味から来ているとする説が広く信じられているが,これは誤りである。
もともと「恙」(つつが)は病気や災難という意味であり,そうでない状態として『つつがない』という慣用句ができた。これと別に正体不明の虫さされのあとに発症する原因不明の致死的な病気があり,それは『恙虫』という妖怪に刺されて発症すると信じられていた。これをツツガムシ病と呼んだ訳だが,後に微細なダニの一種に媒介される感染症であることが判明し,そこからこのダニをツツガムシと命名したものである。」
と,「恙」が病気の意味があり,それにツツガムシを当てた,ということになる。どちらが正しいかは知らないが,恙無しが,平穏無事,という意味に変わりはない。
ところで,むかしから,ある仕事や業務をし始めて,三年くらいたつと,仕事をしていて,
順調に行っている,
という,何と言うか,順調感というか,平常感というか,そういう感覚がある,と思っている。普通は意識しないが,あるとき,異和感,あれっ,というなんだろう,変だなという感覚を感じるときがある。別に具体的に何か起きているわけではないが,自分の感覚に,いつもとちょっとしたずれというか,異質感を感知したとでもいうものだ。僕は,これが,その仕事の現場感覚で,大事な問題感覚だと思っている。
問題の定義は,いろいろあるが,期待値(自分がこうあるべきだという感覚,こうしなくてはいけないという基準感,こうしたいという期待感等々を含む)と現状とのギャップである。意識しているときは,自分の思惑との差といってもいい。しかし,意識の閾下なのだが,皮膚感覚というか,空気感というか,違和を感受することがある。それは,自分の中の期待水準が明確であればあるほど鋭くなる。
一見恙無いように見えて,そのポジションを少しずらして,視点を変えると,違うということに,意識的になれる。しかし,その前に,感覚は,異和感を感じ取っていることが多い。
レミングの行進として知られている,ある種の鼠の集団自殺があるが,僕はいま日本がそんな状態にあるように思えてならない。
あるラジオ番組で,経済アナリストの,藤原直哉という方が,いまの日本人を評して,
「今だけ,カネだけ,自分だけ」の社会,
と,痛烈に批判されたそうだが,一方で,内向きで,自分探しだの,ありのままの自分だの,にうつつをぬかし,他方では,一日で何億稼いだと吹聴し,明日のことに全く思いを致していない。しかし,全体としてみると,レミングの行進になつていることに,ほとんど無沈着だ。「今だけ・カネだけ・自分だけ」のたこつぼに入っている状態だからだ。あの戦争前夜に酷似しているという人が多い。そういう人の感覚を無視してはいけない。そういう感覚を感知する人たちには,いま・ここにいながら,それを対比するアナロジカルな視点を持てているから,そう感じられるのだ。一種のメタ・ポジションである。埋没した行進の最中にいては,その異和感は感じにくい。
あるいは,なにがしかの異和感を感じているのだとしたら,おのれのその変だな,という感覚を無視してはいけない。後から振り返ると,あれだったか,と思い当ることが多いのだから。
この道しかない春の雪ふる
という種田山頭火の句に,重なるのは,春ではなく,極寒である気がする。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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