2014年12月20日
問い
月一回のエキスパートクラスに参加してきた。先月のことになる。
珍しく,メンバーに不都合がいろいろ生じて,三人での開催だったが,そこで,グランディングについて,質問し,答える,ということを,エクササイズとしてやった。
これがなかなか面白いのである。
まず,第一問いがそうそう出ないのである。
そして,自分が知っているつもりなのに,口に出してみると,的を外していたり,不足していたりすることに気づくのである。
教えることは,教わることだ,
とはよく言われるが,まさに,
自分が何を知らないかに気づく
のである。日々,習慣のように,あるいは,惰性で,
当たり前にやっていること,
が,当たり前すぎて,そのことに疑問を持っていない。だから,問いを立ててみることは,重要なのだ。たとえば,
分からないことは何か,
と問いかけても,自分では,分かっていることしか意識していないから,
何が分からないかがわからない,
という体たらくに陥る。
知れるを知るとなし,知らざるを知らずとせよ,
それが知るということだ,とは確かにその通りだ。しかし,それには,
問い
をしかけてみなければ,何を知らないかは,知りようがない。
知(識)は,
Knowing that(そのことについて知っている)
と
Knowing how(そのやり方を知っている)
があるが,知っていて,やっていても,それをメタ・ポジションで見ないと,
なぜそうなっているの?
という疑問は浮かばない。グランディングについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163127.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163294.html
等々,何度か触れたが,それを初めての人に説明していて,質問されたら,どう応えるのか。たとえば,
グランディングで大事なことは何か
グランディングがやれているかやれていないかは,何で分かるか
グランディングとはどういう意味か
グランディングしてどんな変化に気づくのか
等々。自分でやっていて,それを自分で自己修正が効くには,自分で,それを目利きするメタ・ポジションの目が必要のはずである。そのとき,
そうなっているから,その通りにする,
よりは,
そうするのは,かくかくの理由があるから,そうしなければならない,
というほうが,呑み込みが早いはずである。
それは,自問自答とも言うが,同じレベルでそれをやっていれば,堂々巡りになる。だから,自分を批判的(クリティカル)に,問いを立てられなければならない。
やはり,「問い」のないところに,新しい発見はない。問題意識と呼び換えてもいい。惰性でやっているのではない,ということが,その問いで見える。
その対処法として,(前にも書いた気がするが)僕が考えているのは,無理やり,機械的に,
なぜ,なぜ,なぜ(を三回),
何があったのか(何が起きたのか),
どうしてそうしたのか(どうしてそうなったのか),
と無理やり問いを懸けてみる。そうすると,それへの答が浮かんでくる。いったん浮かぶと,見え方が変わる。
たしか,清水博氏は,
「創造の始まりは自己が解くべき問題を自己が発見することであって,何らかの答を発見することではない」
と言っておられ,それは,
「これまで(自分の居る場所で)その見方をすることに大きな意義があることを誰も気づいていなかったところに,初めて意義を発見する」
ということだと,言っておられた。
それは,しかし,あらかじめあるのではない。
いやはや,どんな場でも,学習である。
生涯一書生
である。
参考文献;
清水博『生命知としての場の論理』(中公新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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