2014年12月21日


筋を通す,ということを言うとき,いくつかの意味がある。辞書だと,

道理にかなうようにする,
物事の首尾を一貫させる,

といった意味になる。道理にかなう,というのは,

人の行いや物事の道筋が正しく,論理的であることを意味する表現。合理的であること,

「理にかなう」とも言う,

とある。で,筋を通す,には,

全体を通じて論理的なおかしさのないようにすること,

という意味が一つ出てくる。たとえば,

整合性をもたせる,
辻褄を合わせる,
調和をもたせる,
統一性をもたせる,
一貫性をもたせる,

等々がある。しかし,それを,意志の固さということになぞらえると,

心に決めたことを他からの圧力に負けずに押し通すこと,

という意味になり,たとえば,

意地を貫く,
意地を通す,
初志貫徹する,
自分を通す,
自分を貫く,
自分を曲げない,
こだわる,

等々になる。あるいは,筋を,道義とか義とか仁とかといった,その人の倫理になぞらえると,

あくまでも道義心に則って進めるさま,となり, たとえば,

義を貫く,

ということになる。もうすこし,平たく,人の生き方になぞらえると,

真心をもって相手との約束を守ること,

となると,

信義を守る,
信義を貫く,
義理堅い,

等々となる。

筋は,元来,

「ス(直)+ヂ(道)」

で,

真っ直ぐな線状のもの,
細く長い線状のもの,

が語源。「筋」は,

肉体の力を伝えるスジ,筋肉

を指すらしい。そのせいか,「筋」には,

肉の筋,線維

という意味の他に,

ひとつづきになった線状のもの

という意味があり,「筋を通す」につながる。だから,同じく「すじ」といっても,

血統
物事の通り
小説・演劇・映画などのあらまし
具体的な名を出せないとき,政府筋といった言い回し
素質
鉄道・街道の沿線
細いものを数える時の単位

等々になる。しかし,ここからは,僕の憶説だが,基本は,

道理にかなう
というか
理にかなう

のではないか,ヤクザが極道の筋を通すことを,その筋の人ならともかく,一般社会では,

筋が通っている

とは,言わない。道理にかなうというか,理にかなってはいないからだ。

では理にかなうとはどういうことか。僕は,ロジカル・シンキングで言うことと,ここはつながっているのではないか,という気がしてならない。

その生きざま

意地を通す

おのれを通す

が,評価されるには,そこに意味や価値が見えなければ,単なる頑固,依怙地に過ぎない。その理を辿ってみると,なるほどと,心を打つか,腑に落ちるものがあるからではないか。そこは,ロジカル・シンキングと一致する。論理を他の人がたどれなければ,その理は,不合理か非合理か,理不尽ということになる。

では,たどり直せる筋とはどういうことか。

ある推論が論理的であるとは,

その推論のプロセスが形式的に正しいこと

をさす。それを妥当性と呼ぶ。つまり,話がつながっていること,つじつまがあっていること。つまり,ロジカルかどうかとは,そのプロセスの筋が通っているかどうかをさす。その妥当性は,結論の是非や実質的内容とは関係なく,前提と結論のつながり方に依存している。

筋の通り方には,一般に,

●意味の論理の筋
●事実の論理の筋

のふたつがある。前者を演繹,後者を推測,と呼ぶ。

演繹では,妥当かどうかという形式的側面(論理性)が問題

になり,

推測では,説得的かどうかという内容的側面(事実性)が問題

になる。しかし両者は相互補完である。推論で確証された法則が演繹の前提となる。

演繹とは,ある主張からその含意している意味をとりだすこと。一つないし複数の主張から,その意味するところを明らかにし,それによって論証を組み立てたてる。演繹的思考は,与えられた前提から結論に至る,前提→論証→結論と流れが一本の論理的流れにならなくてはならない。前提となっている一般的論(真理=法則)の個別化をたどり,「それゆえに」「だから」と結論づけていく。つまり,例証をする,守りの論理である。演繹的結論の場合,論理の流れに飛躍があるとすると,前提以外の要素をいれた,推測(論理の飛躍か前提の間違った適用)が入っていることになる。

一方,推測は,ある事実証拠に基づいて,それには含意されていないような,他の事実ないし一般的な事実の成立を結論する。これには,三つある。

ひとつは,仮説的思考。証拠をもとにそれをうまく説明するタイプの推測。証拠がなぜそうなっているかを説明していく。その場合,仮説のよしあしは,次の点によって評価される。

・立てた仮説が,証拠となる事実を適切に説明しているかどうか
・他に,事実を説明するに足る仮説がないかどうかのチェック

いまひとつが,帰納的思考。仮説的思考のなかでも,個別の事例を証拠に,一般的主張を結論するものを帰納的思考という。帰納的思考は,個々の事例から出発し,別の事例へ,あるいは一般化に向かう。帰納的思考は発見的で,攻めの推論である。

ついでに,もうひとつが,アブダクション。与えられた証拠のもとで,最良の説明を発見する推理方法。理論の真偽を問うのではなく,観察データのもとで,どの理論がよりよい説明を与えてくれるのかを相互比較する。データのもとで,仮説間の相互比較しベストのものを選び出す。

ちょっと細分に入り過ぎた。

さて,では,筋を通す,ということは,確かに,たどり直してみたら,一貫していた,と思えることだとして,しかし,そうやって理をたどるのは,おのれ自身なのか,誰なのか。友人なのか,知人なのか,親族なのか。しかし,仮に,誰かにたどってもらってみて,

一本筋が通っているね,

などと評されて,嬉しいものなのか。その点は,いささか疑わしい。所詮,自分の人生にとことん付き合っているのは,外面も内面も,自分でしかない。他人の評は,単なる印象の積み重ねに過ぎない。勝海舟ではないが,

行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張

なのである。

だから,僕は,筋を通す,というのは,他人の目から見て,ではないのではないか,という気がする。他人におのれの生き方をたどって,是非を言ってもらうために,筋を通しているわけではないからだ。

むしろ,吉本隆明の言う

「重要なことは何かといったら, 自分と, 自分が理想と考えてる自分との, その間の問答です。 『外』じゃないですよ。 つまり,人とのコミュニケーションじゃ ないんです。」

という自己対話なのではないか。他人から見たら,筋も軸もいい加減に見えようと,理想の自分との対話の中で,自分が道を決めているかどうかの方が,遥かに重い。で,死の直前,自分の来し方を尋ねてみて,

一本に見えているかどうか,

が大事なのだ。ここで言いたいのは,事実として,

一本筋であったかどうか,

ではないということだ。大事なのは,死に臨んで,生きてきた道筋が,いまの自分に必然だと思える,そのときの心境こそが肝心要なのだ。

おのれの過去の見え方は,いまのおのれの生き方に依存する。つまり,

ああ,ここへ来るべくしてきたのだな,

と思える心境に,そのときいることこそが大事なのだ。僕にとって,筋が通る,とはそういうことだ。
結果として,そういう自己認知のできる生き方をしておきたい,ということに尽きる。

そういえば,勝海舟は,こんなことを言っていた。

主義といひ、道といつて、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といつても、道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは、おれの取らないところだ。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
野矢茂樹『論理トレーニング』(産業図書)
市川伸一『考えることの科学』(中央新書)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:40| Comment(0) | 生き方 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください