筋を通す,ということを言うとき,いくつかの意味がある。辞書だと,

道理にかなうようにする,
物事の首尾を一貫させる,

といった意味になる。道理にかなう,というのは,

人の行いや物事の道筋が正しく,論理的であることを意味する表現。合理的であること,

「理にかなう」とも言う,

とある。で,筋を通す,には,

全体を通じて論理的なおかしさのないようにすること,

という意味が一つ出てくる。たとえば,

整合性をもたせる,
辻褄を合わせる,
調和をもたせる,
統一性をもたせる,
一貫性をもたせる,

等々がある。しかし,それを,意志の固さということになぞらえると,

心に決めたことを他からの圧力に負けずに押し通すこと,

という意味になり,たとえば,

意地を貫く,
意地を通す,
初志貫徹する,
自分を通す,
自分を貫く,
自分を曲げない,
こだわる,

等々になる。あるいは,筋を,道義とか義とか仁とかといった,その人の倫理になぞらえると,

あくまでも道義心に則って進めるさま,となり, たとえば,

義を貫く,

ということになる。もうすこし,平たく,人の生き方になぞらえると,

真心をもって相手との約束を守ること,

となると,

信義を守る,
信義を貫く,
義理堅い,

等々となる。

筋は,元来,

「ス(直)+ヂ(道)」

で,

真っ直ぐな線状のもの,
細く長い線状のもの,

が語源。「筋」は,

肉体の力を伝えるスジ,筋肉

を指すらしい。そのせいか,「筋」には,

肉の筋,線維

という意味の他に,

ひとつづきになった線状のもの

という意味があり,「筋を通す」につながる。だから,同じく「すじ」といっても,

血統
物事の通り
小説・演劇・映画などのあらまし
具体的な名を出せないとき,政府筋といった言い回し
素質
鉄道・街道の沿線
細いものを数える時の単位

等々になる。しかし,ここからは,僕の憶説だが,基本は,

道理にかなう
というか
理にかなう

のではないか,ヤクザが極道の筋を通すことを,その筋の人ならともかく,一般社会では,

筋が通っている

とは,言わない。道理にかなうというか,理にかなってはいないからだ。

では理にかなうとはどういうことか。僕は,ロジカル・シンキングで言うことと,ここはつながっているのではないか,という気がしてならない。

その生きざま

意地を通す

おのれを通す

が,評価されるには,そこに意味や価値が見えなければ,単なる頑固,依怙地に過ぎない。その理を辿ってみると,なるほどと,心を打つか,腑に落ちるものがあるからではないか。そこは,ロジカル・シンキングと一致する。論理を他の人がたどれなければ,その理は,不合理か非合理か,理不尽ということになる。

では,たどり直せる筋とはどういうことか。

ある推論が論理的であるとは,

その推論のプロセスが形式的に正しいこと

をさす。それを妥当性と呼ぶ。つまり,話がつながっていること,つじつまがあっていること。つまり,ロジカルかどうかとは,そのプロセスの筋が通っているかどうかをさす。その妥当性は,結論の是非や実質的内容とは関係なく,前提と結論のつながり方に依存している。

筋の通り方には,一般に,

●意味の論理の筋
●事実の論理の筋

のふたつがある。前者を演繹,後者を推測,と呼ぶ。

演繹では,妥当かどうかという形式的側面(論理性)が問題

になり,

推測では,説得的かどうかという内容的側面(事実性)が問題

になる。しかし両者は相互補完である。推論で確証された法則が演繹の前提となる。

演繹とは,ある主張からその含意している意味をとりだすこと。一つないし複数の主張から,その意味するところを明らかにし,それによって論証を組み立てたてる。演繹的思考は,与えられた前提から結論に至る,前提→論証→結論と流れが一本の論理的流れにならなくてはならない。前提となっている一般的論(真理=法則)の個別化をたどり,「それゆえに」「だから」と結論づけていく。つまり,例証をする,守りの論理である。演繹的結論の場合,論理の流れに飛躍があるとすると,前提以外の要素をいれた,推測(論理の飛躍か前提の間違った適用)が入っていることになる。

一方,推測は,ある事実証拠に基づいて,それには含意されていないような,他の事実ないし一般的な事実の成立を結論する。これには,三つある。

ひとつは,仮説的思考。証拠をもとにそれをうまく説明するタイプの推測。証拠がなぜそうなっているかを説明していく。その場合,仮説のよしあしは,次の点によって評価される。

・立てた仮説が,証拠となる事実を適切に説明しているかどうか
・他に,事実を説明するに足る仮説がないかどうかのチェック

いまひとつが,帰納的思考。仮説的思考のなかでも,個別の事例を証拠に,一般的主張を結論するものを帰納的思考という。帰納的思考は,個々の事例から出発し,別の事例へ,あるいは一般化に向かう。帰納的思考は発見的で,攻めの推論である。

ついでに,もうひとつが,アブダクション。与えられた証拠のもとで,最良の説明を発見する推理方法。理論の真偽を問うのではなく,観察データのもとで,どの理論がよりよい説明を与えてくれるのかを相互比較する。データのもとで,仮説間の相互比較しベストのものを選び出す。

ちょっと細分に入り過ぎた。

さて,では,筋を通す,ということは,確かに,たどり直してみたら,一貫していた,と思えることだとして,しかし,そうやって理をたどるのは,おのれ自身なのか,誰なのか。友人なのか,知人なのか,親族なのか。しかし,仮に,誰かにたどってもらってみて,

一本筋が通っているね,

などと評されて,嬉しいものなのか。その点は,いささか疑わしい。所詮,自分の人生にとことん付き合っているのは,外面も内面も,自分でしかない。他人の評は,単なる印象の積み重ねに過ぎない。勝海舟ではないが,

行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張

なのである。

だから,僕は,筋を通す,というのは,他人の目から見て,ではないのではないか,という気がする。他人におのれの生き方をたどって,是非を言ってもらうために,筋を通しているわけではないからだ。

むしろ,吉本隆明の言う

「重要なことは何かといったら, 自分と, 自分が理想と考えてる自分との, その間の問答です。 『外』じゃないですよ。 つまり,人とのコミュニケーションじゃ ないんです。」

という自己対話なのではないか。他人から見たら,筋も軸もいい加減に見えようと,理想の自分との対話の中で,自分が道を決めているかどうかの方が,遥かに重い。で,死の直前,自分の来し方を尋ねてみて,

一本に見えているかどうか,

が大事なのだ。ここで言いたいのは,事実として,

一本筋であったかどうか,

ではないということだ。大事なのは,死に臨んで,生きてきた道筋が,いまの自分に必然だと思える,そのときの心境こそが肝心要なのだ。

おのれの過去の見え方は,いまのおのれの生き方に依存する。つまり,

ああ,ここへ来るべくしてきたのだな,

と思える心境に,そのときいることこそが大事なのだ。僕にとって,筋が通る,とはそういうことだ。
結果として,そういう自己認知のできる生き方をしておきたい,ということに尽きる。

そういえば,勝海舟は,こんなことを言っていた。

主義といひ、道といつて、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といつても、道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは、おれの取らないところだ。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
野矢茂樹『論理トレーニング』(産業図書)
市川伸一『考えることの科学』(中央新書)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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