三悪


先月のことになるが,柳家一琴の会

https://www.facebook.com/events/369015836592906/?pnref=lhc.recent

にお邪魔してきた。ねたは,

一琴さん 『突き落とし』『厩火事』
ゲストの笑福亭銀瓶さん『ちはやふる』

「突き落とし」は,

郭に上がって,散々飲み食いし,「棟梁(を騙っている)」の家まで来てくれれば払うといって,若い衆についてこさせ,途中,お鉄漿溝で,「昨夜もてたかどうかは小便の出でわかるから,ひとつみんなで立ち小便をしよう。若い衆,お前さんもつき合いねえ」と,渋るのをむりやりどぶの前に引っ張っていき,背中をポーンと突いて,落っことして,その間に全員,風を食らって一目散,

という噺。。。。

飯島友治氏が,落語の中の三悪として,「突き落とし」「居残り佐平次」「付き馬」の三席を挙げているそうであるが,逆に言うと,落語には,こういうちょっと悪辣な噺は,少ない,ということだろう。

だから,なかなか落ちが難しいらしく,ひとり遅れてきた奴が,

「若い衆がいい煙草入れを差していたから,惜しいと思って抜いてきた。」
「泥棒だな,おい」

とサゲるのもあるし,

東京の「突き落とし」からの移植版の上方版「棟梁の遊び」では,
「大工は棟梁,仕上げをご覧じ」

という,ダジャレオチになっているのもある。しかし,後味が悪いのか,

「うまくいったなあ」
「今夜は品川にしようか」

とつづけて,そんなうまい話は続かないという口吻で,ドジを踏んだ,と締めるのもある。今回は,このパターンであった。

飯島氏の「三悪」として挙げていることについて,

「落語に道徳律を持ち込むほど,愚かしいことはありません。」
とか
「詐欺行為でよろしく無いと言うものだが,噺を聞いて真似をする様な者もいるとは思えず,最近のサスペンスものをはじめとする映画やドラマに比べれば今なら何の問題にもならぬであろう。」
とか
「三悪などと大仰な事を言わないまでも,良く考えれば怪しからん噺ではある。無銭飲食,踏み倒し,それにお歯黒溝へ突き落とすと言うのだから。しかし,冷静に考えれば,目撃者もあったろうし,さほど広くない江戸市中,すぐ御用となるに相違ない。かように落語の矛盾について理屈を言うのは野暮な事であるが,これをもって『三悪』などと決めつけるのはもっと野暮と言うもの。」
とか,

言訳なのか,反撥なのか,しきりに言われるが,不思議に,

「『居残り佐平次』と『付き馬』は多くの人が演じ,音も沢山残っているが,この『突き落とし』に限っては残っている音がほとんど無いと言う状態であった。圓生演についても,『圓生全集』に載っておらず,従って速記も無く,『圓生百席』にも入れられる事が無かった。現在でも『突き落とし』はこの圓生演と,柳朝演の二本しか所持していないのである。」

といわれ,

「志ん生は若き日,初代小せんに廓噺を直伝でみっちり伝授されていて,「突き落とし」も当然教わっているはずですが,『ひどい噺』と嫌った理由は,今となっては分りません。吉原への愛着から,弱い立場の廓の若い衆をひどい目に合わせるストーリーに義憤を感じたか,または,小見世の揚代を踏み倒すようなケチな根性が料簡ならなかったか。」

というほどで,やっている側も,かつて遊郭の体験のある噺家ほど,顰蹙モノだったのだろう。考えれば,落語は,

最後に「落ち(サゲ)」がつくことをひとつの特徴としてきた経緯があり,「落としばなし」略して「はなし」

というのに,これでは,踏んだり蹴ったりで,どうさげても,騙った連中を笑いにはできないし,といって,騙られた側をおちょくりもできない,ちょっと厄介な噺に違いないのである。滑稽話にも,人情話にも,芝居噺にも,怪談噺にもできない。

いやはや笑いにならないのである。笑いとは

楽しかったり,嬉しかったりなどを表現する感情表出行動の一つ。全く自発的な場合もあるが,他人の行動に対して,「笑う」という表現を通して,自分の意思を伝えることにも使われる,

笑う側が,メタ・ポジションにいなくては笑えないのである。郭でのいたずらも,自分との距離が測れれば,笑いを誘うが,集団での詐欺行為が計画通り成功した顛末を聞かされて,メタ・ポジションにいられる人間はそうは多くない。明日は我が身である。そいつらがドジを踏んで,初めて笑えるのである。

笑いは,

構図(シェーマ)のずれ,

といわれる。こちらの予想や期待とずれるから,笑う。ギャグも同じだ。しかし,受け手側の常識とのズレが,発生しなければ,笑えない。どこかでドジるだろうと思ったら,あれよあれよとうまくいったのでは,何処で笑えばいいのか。

「ちはやふる」は,知ったかぶりの珍解釈が,こちらにとっては,滑稽だし,そのやりとりの珍妙さもわらえる。ドジを嗤える位置にこちらがいる。

「厩火事」は,犬も食わない夫婦げんかに巻き込まれた仲人と髪結いの女房の心の機微が微苦笑を誘う。

しかし,「突き落とし」は,タイトルからして,イメージが悪い。むしろ,突き落とされて,店へ帰った若い衆の叱られる姿すら浮かんで,ちょっと気持ちが引く。

どこかで馬脚を現すのでは,どこかでしくじるのでは,という突っ込みどころで,店の若い衆も,突っ込まず,あれよあれよと詐欺が成り立ってしまっては,何処で笑えるのだろう。

小三治師匠ではないが,「この先どうなる」と,引き込まれるのではなく,「どこでドジを踏むか」と期待しつつ,ついに成功してしまうのである。むしろ。その肩透かしが,ひどい。

落語とドラマとでは,観客の期待値が違うのだ,ということが,つくづく思い知らされる。噺の焦点のあてどころを変えると,違った落語になるのかもしれないが。








今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

この記事へのコメント