2014年12月24日

生態学


江崎保男『自然を捉えなおす』を読む。

本書は,サブタイトルに「競争とつながりの生態学」とあるように,生態学の立場からの自然の捉え方なのだが,しかし,「序」で,視点を変えるのは人だけで,その視点の差は,「立ち位置」に左右される,と書いているところから見ると,本書が,さまざまな学問的な立ち位置によって,自然の切り取り方が,こうも変わるのだということを,書こうとする,意図があるのだと思う。

で,のっけから,生物学,生理学,生態学の違いから。

生物学は,生物はどのように生きているのか,生きてきたのか,その仕組み,メカニズムは何か
生理学は,生物個体がどのように生命を維持しているのか,そのメカニズムは何か
生態学は,集団レベルの生物学であり,静物に関する社会学であり,経済学であり,「生命」ではなく「生活」の科学

と区分けされる。この違いは,たとえば,「なぜ鳥は渡りをするのか」という問いに,至近要因と究極要因があり,
究極要因は,進化の産物と考えられるものであり,至近要因は,学問分野ごとに変わる。生理学なら,「鳥に渡りの衝動を起させる日長の変化」であり,生態学なら,「渡っていく先にある,繁殖に十分な量の餌」となる。

「現代の生物学者のアタマの引き出し構造は,タンスの引き出しのような,すべてが一つの面を向いたものではなく,『樹木の枝のように四方八方の斜め上にむかって伸びており,枝=各引き出しを引き出すと,そのなかには至近要因群が収納されており,そのはるか奥にはいつも,究極要因群を収納した貯蔵庫そのものである幹の内部が,うっすらと影をまとって見えており,引き出しを戻すと枝が幹に接し,つながるようになっている』といったイメージ…

という。進化を背景にして,各枝先に,生物学の各分野がある,ということになる。

生態学,つまりエコロジーは,もともと,

Ecology=oikos+logos

で,オイコスとは,「家」を意味し,原義から,「生活の科学」なのだという。

さて,そこで地球の自然を研究対象とする生態学の「自然の切り出し方」は,たとえば,日本列島の場合,

「森林・河川・海域・湖沼・草原・水田農耕地・都市」

という七区分になる(「湿地」を入れると,8区分)。それぞれには,特有の生物集団が生息し,その地域生物集団を,

群集
あるいは
生物群集

と呼び,その機能を説明するには,よく知られている食物連鎖が分かりやすい。それは,

「動物は他の生物を食わないと生きていけない(=動物の定義,動物とは他の生物を食う生物である)。たとえば森の住人であるハイタカは多種多様な小鳥を食って生きている,小鳥たちは虫を食って生きている,虫たちは植物の葉っぱを食って生きている」

というものだが,現在の食物連鎖概念は,「植物の光合成による,有機物生産を起点とする生食連鎖のみならず,動植物の死体や死物(デトリタス)を起点とする腐食連鎖にも広がってい」るらしい。

「腐食連鎖とは,たとえば森林土壌中には樹木の落ち葉や動物の死体・排泄物といったデトリタスが大量に蓄積されているが,デトリタスは有機物であり,生物が必要とする(化学)エネルギーが炭素結合として含んでいるので,これを食う多様な動物たち=デトリタス食者や,これらを無機物にまで分解してしまう多様な菌類・バクテリアといった分解者,さらにこれを食う菌食者が生息しており,それらがさらに消費者たる動物たちに食われる連鎖・つながりである」

と。つまり,「食物連鎖が人を頂点とする消費者たちの食料生産機能を担っているのに対し,腐食連鎖は地球全体の廃物処理の機能を担っている」ということになる。それは,

「植物を起点とする『生食連鎖網』とデトリタスを起点とする『腐食連鎖網』という2つの閉鎖的なネットワークが,いきものと死物の二つの回廊(コリドー)を介してボトルネック状につながっており,有機物は群集内を循環することになる」

ということなのである。ここで,ジョージ・タンズリーが発明した概念,

生態系(エコシステム)

が,意味を持ってくる。上記の循環システムは,

「有機物つまり生物体とデトリタスを構成する炭水化合物は群集のなかを循環するのですが,菌類やバクリテリアがデトリタスを最終的に無機物に分解・還元してしまうと,それらは二酸化炭素と水とアンモニアであり(生物体を構成しするタンパク質を完全分解するとこうなる),これらはもはや有機物ではなく生物体を構成しないので,定義上生物体の枠外にでてしまい,狭義の物質(炭素[C],窒素[N],酸素[O],リン[P])は群集の中を循環しないのです。」

タンズリーは,しかし,「群集を抱え込んでいる『無機環境を含めて生態系』と定義」したので,

「生態系内の無機環境にとどまっている無機栄養塩を,植物が光合成で体内に取り込むことになり,生態系のなかを物質が循環することになる。」

この循環を支えているのは太陽エネルギーであり,エネルギーは,生態系内を一巡する間に,生物たちが使いつくし,宇宙に放散してしまうので,

「生態系は太陽をバッテリーとする物質循環装置」

という言い方になる。しかし,これは,地球全体で起きているのであって,上記の区分での生態系では,真の循環は起きていない。たとえば,一方向に流れる河川では,循環が起きるはずはない。で,

「各種生態系には宇宙から光エネルギーが注ぎ込まれていると同時に,広義の物質である無機物と有機物が,有機物に同居する化学エネルギーとともに,隣接する系から流入する。そして,元から存在する物質とともに系内の食物連鎖という循環的な物質移動過程において,群集の食物生産機能と廃棄物処理機能に活用された後,系から流出していく」

として,「流入+系内での循環(的移動)+流出」という物質の動きを,生態系と見なしているらしい。その視点(生活の視点・エコロジカルな視点)からみると,

生物群集は一般的に形態上安定している

ものなのだという。特別な理由がない限り,「絶滅しない」という。では,そのメカニズムは,どうなっているか。

「捕食―被食の関係が織りなす食物連鎖網ネットワーク……たとえば,末広がりの投網のイメージです。最上位に人間がいます。(中略)いっぽうこの食物連鎖とつながりながらも,概念的には別物として,地表あるいは土壌中のデトリタスを基盤とする腐食連鎖の投網ネットワークが存在しているはずです。ただし,腐食連鎖を上にたどっていくと次第に地上の捕食者が登場するので(たとえば,落ち葉を食ったカタツムリをマイマイカブリが捕食する),現実にはこの投網ネットワークは途中から生食連鎖に乗り入れしていることになります。…また,ある種は複数種の餌をとり,同じ種が複数種に食われるので,これらのネットワークの上下のつながりを構成する一本一本の連鎖は,三次元に複雑に互いに交差しており,さらにこれに,競争と利用を動機とする複雑きわまりない捕食以外の生物間相互作用が,縦ではなく横あるいは斜めにつながり繊維として各種個体群をつなげているので,結果として複雑な三次元網目構造が形成されています。」

それぞれの関係は,大きさ(個体数)と太さ(関係の強さ)を時間的に変動させているので,実体は,「四次元網目構造」で,変動幅をもったバランスがある,という。

しかし,それが,隕石衝突による恐竜絶滅のようなリセットがなかったにもかかわらず,なぜ簡単に,地球各地で崩れているのか,について,著者は明確な答えを出していないように見える。そして,

「(恐竜に代わってヒトが頂点捕食者になって)この世は安定の方向に向かった。」

と言う。

「人は,その社会があくまでも他の生物たちがつくるつながり構造の存在を前提として成立している事実に気づくのにかなりの時を要した。」

という。少しぬるくないか,と,思う。

「このことに気づいた今,私たちは人という知性をもった動物として,自らが自然のなかで最上位頂点捕食者のニッチを占めているのであり,群集という地域生物共同体のなかで,そのメンテナンスという共通目標にむかって,『意識的に』貢献することができる唯一の役割であることを自覚しなければなりません。」

とくると,もはや,地団駄ふみたいくらいピンボケである。これが生態学の尖端にいるものの発言なのだ,というのが現実である。

それにしても,本書を読了して,

「生活する空間スケールも種によって大きく異なっています。一般的な植物個体が一生,芽生えたその地(大樹の根際の直径でもせいぜい数メートルの範囲)から離れられないのに対し,動物個体は原則,かなりの範囲を動き回ります。そして人という,すでに月に達した個体がいる特殊例を除いても,翼をもつ鳥たちの一生の行動半径がいかに大きいかはよく知られていることです。なかでも,キョクアジサシという鳥は夏の北極圏で繁殖し,非繁殖期は南極で過ごすので,わたる距離は往復三万2000キロにもなるのです。」

という奥行のある自然を,さまざまな視点から,具体的に見せてくれるのかという期待を,見事に裏切られた感があるる。その要因の多くは,学問としての,自然の切り取り方の異同の細部に力を注ぎ過ぎて,「自然の見え方」の奥行が,ときにまったくわからなくなることがあったせいだと思う。

読みながら,ときに投げ出したくなった。それは,その些末なこだわりが,随所で,話の腰を折り,せっかくの興味を削ぎ取られたせいだ。行動学と生態学の違いだの,動物社会学と行動生態学の違いだの,生態学の中の,群集生態学だの生態系生態学だの個体群生態学だの機能生態学だの等々の区分けへのこだわりが,煩雑すぎ,見方の違いが自然の見え方をこれだけ変える,という具体的に変ったものの描写を後背へ追いやってしまい,興味が切れてしまう。そのために,

「自然を捉えなおす」
というより
「とらえ直そうとする視点の違い」
の方に力点があるようにしか見えなかった。

おそらく,視点の違いで,これだけ自然の見え方が変わる,と言いたかったのだろうが,見え方の違いではなく,見方,つまり学問側の自然の切り取り方の細部に拘泥しすきて,肝心の見え方の違い,ひいては,自然の奥行の深さの方が,地に沈んでしまった感がある。一体何を書きたかったのだろう,と何度も首をひねった。

参考文献;
江崎保男『自然を捉えなおす』(中公新書)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:06| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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