2014年12月25日
間
間(ま)については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163296.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/395727101.html
等々で触れたし,間合いについても,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163431.html
で触れた。しかし,今日(メンター)コーチングを受けていて,最後で,「間」のことに触れて,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/409301615.html
で自分が書いたことを思い出した。
「あれっ,と観客に一瞬戸惑わせる位の長めの間,があってもいい。」
と,主観的には気づけないが,人のことには気づける。自分で長いと思っていても,相手にとっては,そうではないかもしれない。
「間(ま)」は,
自分のためにあるのではなく,相手のためにある,
という当たり前のことに気づいた。
合間,というのは,ニュートラルで,あいた「間」をさす。それが,主体的に意味を持てば,
間合い,
になり,意味がなければ,
隙間
になる。しかし,隙間は,
本来空いているべきでない,「間」が,空いていることだから,
隙,
にもなる。隙間は,あってはならないものだから,詰めるべきものだが,間合いは,その距離に意味がある。
間(ま),
を詰めれば,命取りにもなる。
合間
は,それを意識すると,意味ある,
距離,ないし空白,
となり,意識した側に,アドバンテージがある。だから,意識しなければ,
隙間,
に変わる。しかし,隙間は,間合いにはならない。本来空いていてはいけないというか,詰まっているべきものがあいているのだから。
以上は,俯瞰した位置からものを言っている,しかし人と対話ないし,対しているとき,間合いは,自分のために取る。しかし,それは,結果として,両者のためにある。コーチングやカウンセリングという場において,
間を取る,
のは,自分のペースにしないためだ。相手のペースにするために,取る。それは,相手の息遣いに合わせる,といったペーシングと重なる。
前にも,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163431.html
で書いたことだが,立ち合いで言う,間合いは,
敵をうつ拍子に,一拍子といって,彼我ともに太刀の届くほどの位置を取り,敵の心組みができない前に,自分の身も動かさず,心も動かさず,すばやく一気に打つ拍子である。敵が,太刀を引こう,外そう,打とうなどという心組みが決まらないうちに打つ拍子,これが一拍子である,
と宮本武蔵は言う。いう。武蔵の本を見ると(剣の心得がないので勝手読みだが)意外と間合い外しをやる。
敵よりも素早く,構える間もなく,敵の懐に入り込んで,敵に全身を寄せてしまうという,秋猴の身という技もある。あるいは,敵のまぎわに入り込み,体ごと敵にぶつかる,というのもある。また,相手に身を密着させて離れない,漆膠という身の置き方もある。
こういう間合い崩しは,ふつう腰が引けたり,手だけで接近したりする。その恐怖をかなぐり捨てて,敵に飛び込むというのは,おそらく,相手は想定していない。そういう間合い崩しは,小手先の技とは異なり,全身でぶつかる,というのに近い。
同じ趣旨のことを,宗矩も言っていて,
立ち会うやいなや,一念にかけてきびしく切ってかかり,先の太刀を入れんとかかる,
と,先んじて打ち込むことを言っているが,もう少し踏み込んで,
一太刀打って,打ったぞと思うと,その打ったと思う心がそのままそこに留まる…。打ったところを,心が元に戻らないため,一瞬,心が空白状態になり二の太刀を敵に打たれて,先手を取ったことが無になる,
と。これを,心を返す,という。
心を返すとは,一太刀打ったら,打ったところに心を置かず,すぐに心を戻して敵の気色をみよ,という。
機先を制したと,得意になっていたら,敵は,そのことに敵愾心をもやし,かえって厳しく対応してくる,それが油断である。
病とは,心の留まることをいう。仏法ではこれを執着といって,もっとも嫌う。心が一か所に執着してとどまれば,見るところを見外して,意外な負けをとる。
心は,形のないことは虚空のようであるが,一心はこの身の主人であり,すべてのわざをすることはみな心に源がある。その心が動いてはたらくことは,心の営みである。心の動かないのは空である。空の動くのは心である。空が動いて,心となって手足へ作用する。立ちをにぎった(相手の)拳の動かぬときに素早く打つので,空を打てという…。
いわば,この場合,相手の太刀を捧げた手の動かないところは,心が働いていない,つまり隙である。そこを打て,という。
この間合いを見ていると,自分のペースではなく,相手のペースを見つつ,そのペースを崩そうとしている。自分の執着に囚われれば,相手を見失う。
たぶん,心が何かに固着して動かないから,相手が見えななくなるだろう。
心を返す,
自分の立つ位置に常に戻す,
とは,一見自分の間合いに戻るように見えて,実は,相手の間合い,呼吸を見失わない,ということなのではないか。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください