格闘


格闘の「格」の字の「各」は,

「夂(あし)」と四角い石を組み合わせて,足が硬い石につかえて止まったさまを示す,

という。「格」は,

つかえて止める堅い棒,引っかかる木,

の意味と言う。そのせいか,「格」には,

つかえる,堅い心棒,人間が芯に持つ本質(「骨格」「人格」)
とか
(つかえる)かどや枠,ものごとを制限するきまり(「格式」)
とか
堅い材料でつくった,ものを留めておく道具,四角く区切ったますがた(「格子」)
とか
こつんとうちあたる(「格闘」「各段」)
とか
至る,本質に突き当たる
とか
ただす,かどめをつける

といった意味がある。格闘は,「挌闘」の字もあるが,この場合は,打つというニュアンスが,「扌」で直接的にでる。しかし格闘には,何か本質的な部分での闘いというようなニュアンスがある気がする。

「闘」は,元来は,「鬪」であり,「鬥」は,

ふたりが武器を持って戦うさま

を示し,「鬪」は,「たちはだかってきりあうこと」を意味する。

しかし,ここで言おうとする「格闘」とは,人とではなく,自分,それも自分の才能というか,限界との格闘である。

人の可能性は無限である,

という。しかし,それは,「可能性」であって,イコール,

実現性,

という意味ではない。ハイデガーではないが,ひとは,確かに,

死ぬまで可能性の中にある,

だから,ずっとそうなれるかもしれない,というあいまいな宙ぶらりの中にいられる,という意味でもある。

僕は,少なくとも,自分の才能の限界を思い知らされてからは,

無限の可能性

などということは,口が裂けても言えない。前にも書いたと思うが,神田橋條治さんが,

自己実現とは遺伝子の開花である,

という言葉が一番ぴんと来る。

「鵜は鵜のように,烏は烏のように」

とその言葉は続く。鳶は鳶であり,鷹は鷹。そういうと,諦念に聞こえるかもしれないが,そうではない。遺伝子の持つ可能性を,開花させるも,蕾のまま萎れさせるのも,おのれ自身である。

才能との格闘,

とはそういう意味だ。しかし,

鵜は鵜のように,烏は烏のように

ということが簡単に見極められはしない。鷹のつもりで,一生,可能性を追うことだってある。可能性だから,誰にも否定はできない。

問題は,そのことの覚悟なのかもしれないのだ。

一生を賭すつもりがなければ,鷹になることを追いかけるのは,単なる世迷言に過ぎない。そして,不思議なことに,賭した分だけの,なにがしかが返ってくる気がする。

鷹にはなれなかったが,何かになっている,

ということに気づくのだ。目指したものとは違ったかもしれないが,打ち込んだ時間は,そのまま人生になっている,ということなのだろう。

ひょっとすると,鳶だと諦めてそこそこの生き方をするより,身のほど知らずに,鷹のふりをすることで,しゃにむに突き進むことが,鷹にはなれないまでも,おのれのもつ伸びしろをかなり広げてしまう効果がある,ということがあるのではないか。

僕のような怠け者には,余りわからないが,身の丈以上のことをしているうちに,身の丈そのものが大きくなる,というようなことが起きる,のではあるまいか。

多く格闘は,そういうことに対してのみなされない。日常の些事と言ってしまうと,言い方が悪いが,ほとんど,大半は,本筋とは関係のないことに費やされる。

特に問題は,似た領域のことの場合だ。たとえば,書くことが仕事であれば,自分本来のチャレンジすべきことではないところで,悪戦苦闘する。しかし,それもまた書くことには違いないので,そのことで,ちっぽけな達成感と充足感がある。

それは,身の丈内のことなので,格闘ではない。格闘ではないことに費やす努力が,格闘のエネルギーを消耗させてしまう,ということはある。それは,身の丈だから,自分の限界を超える努力も工夫もいらないが,それでも書く努力はいるからだ。だからこそ,

覚悟

と言ったのだ。それは,関係ないことを思い切りよく捨てて生きられるか,ということでもある。賭す,とはあるいは,そういう意味かも知れない。しかし,もう一つ大事なのは,

身の丈を超えた成りたいおのれ

になり切って,恥じない,ということも,覚悟に含まれるのかもしれない。僕のように,中途半端な常識人で,テレが出てしまうと,そう成りきれないのである。そこには,

人が何と言おうと,そうなりきってしまう,

いうなれば,頑なほど,おのれを信ずる,ということが必要なのかもしれない。よそ目には,バランスを崩しているように見えるが,本人の中では,自信と夢は,分銅が釣り合っている,というような。

でなければ,無謀なチャレンジは出来ないのかもしれない。

思うのだが,どうしても突破できない壁へのチャレンジをしない限り,壁そのものの大きさも強さねわからないし,自分のもつ限界も見えない。

限界はある。限界のぎりぎりまでいって,撥ね返された(と思い込んでいる)経験から言うと,その限界を突破するのは,並大抵ではない。

やはり,ずぼらな僕のような人間のよくできる仕業ではない。

参考文献;
神田橋條治『技を育む』(中山書店)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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