2015年01月04日
正直
今年のテーマは,正直。
正直は,中国語の,
正しく+素直な
というのが語源であるそうだ。平安の頃から使われているらしい。常識的には,
心が正しく素直なこと,陰日向のないこと。
率直なこと。ありのまま。
という意味だが,その他に,
桶屋の用いる長さ1.2m鉋。木をその上に乗せて,推して削る
とか
家屋・柱などの垂直を検査する具で,長い木の上下に同じに長さの横木があって,上の横木の一端から錘重を垂れる
という意味もある。
「正」は,
「一+止(あし)」で,足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。
と言い,「征」(まっすぐすすむ)の原字,という。そのせいか,この字には,
ただしい
まっすぐである
ただす
という意味の他に,
主なものである
丁度の時刻
まと
等々といった意味がある。
「直」は,
「―(まっすぐ)+目」
で,まっすぐに目を向けることを示す。だから,「直」には,
まっすぐなさま
なおきこと
じかに
等々といった意味になる。
その意味では,「正直」は,正しいかどうかよりは,真っ直ぐに目を向ける,と言うニュアンスが強いのかもしれない。しかし,「正直」が,高く買われているかと言うと,そうでもない。
正直の頭に神宿る
という言い方もあるが,
正直一遍律儀真法(まっぽう)
正直貧乏横着栄耀
とも言い,融通のきかなさを揶揄する言い方も結構ある。しかし,それは,是非,可否の判断から,外から言うからであって,内から見れば,そうではない。確かに,少し前の新聞記事に,
「『自分と相手のお金の取り分の比率を変えながら提案を受け入れるかどうかを聞く』という実験を行った結果そのような結果が得られたとのこと。また,その結果と脳内におけるセロトニン神経細胞の密度を比較したところ,『正直者』タイプの人間はセロトニン神経細胞の密度が少なかったという。そのようなタイプの人間は,セロトニンによる我慢が効きにくいのではないかと見られている。」
といったことが出ていて,単なる単細胞と言われているに等しく,「正直一遍律儀真法」を証明しているようで,正直は分が悪い。ネットでは,正直とは,
「古代の『清明心』が中世に入り武士階級を中心に発展し形成された概念。近世になると更に『誠』の精神へと発展していく」
という説明もあった。しかし,「誠」の「成」は,
「戈+丁」
で,「戈」はほこ,「丁」は,打ってまとめ固める意。打の原字。「成」には,
「道具でとんとんとうち固めて城壁をつくること」
「かけめなくまとまる」
「まとめあげる」
という意味があり,「誠」には,
かけめない言行
を指す。そこには,言い方は悪いが,何についてかは問わず,言行に矛盾がなければよしとするように聞こえる。それは,他律的であり,自律的ではない。
ぼくは,正直を,何か外の価値,規準に照らすのではなく,おのれ自身の倫理(とは,いかに生きるべきか)にこそ照らすべきだ,と思う。
それは,内なる声,というか,自分の本音,と言うべきものとまともに向き合う,ということにつながるのではないか。
自分の気持ちと言うと,少しぶれが大きすぎるので,内なる声にしておくが,それはあるいは,(他人にではなく,おのれ自身に)オープンである,ということにつながる。ひょっとすると,それは,自分自身に対してメタ・ポジションを維持する,ということなのかもしれない。それが,外から矛盾に見えたとしても,厭わないことにしたい。自分がそういう振る舞いを選択していることに自覚的であるという意味で,だ。
以前書いたが,かつていろいろ世話になった先輩は,肝炎の入院先で,高見順の『死の淵より』を読んでいる,と言ってにやりと笑ってみせた。本人なりの意地と意気なのかもしれない。
石田三成は,刑場へ行くとき,「柿」を勧められて,それは体に悪いとか言って,刑吏の嗤いを誘ったというが,そういう刑吏を三成は嘲った。それで思い出すのは,フランス革命で処刑される貴族の誰それが,刑場へ行く馬車の中でも本を読み続け,下りろと促されて,読みかけのページに折り目を付けたと言われるが,おのれの矜持を徹底するという意味で,そこまでいけば,生きざまには違いない。
ただし,その振る舞いを自覚的に選択しているという意味で,である
そういう意味の,正直でありたいと思う。
人の生きるや直し
である。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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