2015年01月06日


『孟子』にある,

我善く浩然の気を養う。敢えて問う,何をか浩然の気と謂う。曰く,言い難し。その気たるや,至大至剛にして直く,養いて害うことなければ,則ち天地の間に塞(み)つ。その気たるや,義と道とに配す。是れなければ餒(う)うるなり。是れ義に集(あ)いて生ずる所の者にして,襲いて取れるに非ざるなり。行心に慊(こころよ)からざることあれば,則ち餒う也。

は,「浩然の気」が独り歩きして,士の心映えを示すものになった。その例が,文天祥の,

天地に正気あり,
雑然として流形を賦す
下は則ち河嶽と為り
上は則ち日星と為る
人に於いては浩然と為る
沛乎として滄溟に塞つ
皇路清く夷(たい)らかに当たりて
和を含みて明庭に吐く
時窮まれば節乃ち見(あら)われ
一一丹青に垂る

という「正気の歌」につながる。この歌は,これに和した,藤田東湖の,

天地正大の気
粹然として神州に鍾まる
秀でては不二の嶽杜為り
巍々として千秋に聳ゆ
注いでは大瀛(だいえい)の水と為り
洋々として八洲を環(めぐ)る
発しては万朶の桜となり
衆芳與(とも)に儔(たぐ)ひ難し
凝りては百錬の鉄となり
鋭利鍪(かぶと)を断つ可し
盡臣皆熊羆にして
武夫盡く好仇なり
神州孰か君臨せる
万古天皇を仰ぐ
皇風六合に洽(あまね)く
明徳太陽に侔し
世として汚隆無くんばあらざるも
正気時に光を放つ,

という「正気歌」を通して有名になった。しかし,明らかに,文天祥にとって,おのれ一個の気概をうたったものが,おのれがたつ国誉めに変身してしまった。

文天祥に和して,東湖は,意味を変えた。

正気,浩然の気とは,おのれの信ずる確信に基づく。自分のなかにある譲れない何か,それが正気に通じている。おのれのみの節義だ。それはこの国のありようとはつながらない,おのれの拠って立つ何ものかのはずだ。それをこの国のありようとつなげた瞬間,おのれの生きざまの言い訳になる。おのれを小さな国体につなげてしまったことになる。そうすることでおのれの拠って立つ拠り所をえたかも知れぬが,天地はもっともっと広く,広大無辺のはず,そういう天地の正気ではなくなっている。

それは東湖にとって,異国への,おのれを正当化する言い訳として,だしに使われている。国がなくなろうが,会社がなくなろうが,おのれが持さねばならぬ義ではなくなっている。

いま,それと同じ空気が流れている。自画自賛が満ち溢れている。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/404516184.html

で,触れた。

義は,

正義ではない。「義」の字を構成する,



は,「ぎざぎざとかどめのたった戈」を描いた象形文字であり,「義」は,

「羊+我」

で,

かどめがたってかっこうのよいこと,
きちんとして格好の良いと認められるやり方,

を意味する。孟子の言う意味は,

よしあしの判断によって,適宜にかど目をたてること,

という。あるいは,

羞悪の心が義の端

とする。悪すなわち悪く,劣り,欠け,あるいはほしいままに振舞う心性を羞じる心である。それは,あくまで,倫理である。倫理とは,

(おのれが)いかにいくべきか,

であって,人に押し付けたり,押し付けられたりするものではない。そう見れば,文天祥の義に対して,東湖のは,大義や正義に紐づけられている。おのれの生き方ではないところから,義を語っている。

そういう語り口が闊歩し始めたら,危険の兆候である。

僕は,義とは,

問い

であると思う。どこかに正しい答えがあるのではない。これでいいのか,このありようでいいのか,とみずからを問うものである。その意味で,答えは永遠にないはずなのである。それは,

倫理に通じる。倫理は,

生き方

である。この生き方でいいのか,と自らに問う。それと同じである。だから,孟子は言う。

天下の廣居に居り,天下の正位に立ち,天下の大道を行ふ。志を得れば民と之に因り,志を得ざれば,独り其道を行ふ。富貴も淫すること能わず,貧賤も移すこと能わず,威武も屈すること能わず

と。

参考文献;
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
冨谷至『中国義士伝』(中公新書)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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