自責


かつては,自責化という言い方で,

①自分が主体になって解決する。もちろん必要なら,メンバーや上位者の支援を求める。その判断も自責である。
②自分に解決できるカタチに置き換える。こういうカタチなら,ここまでできるという判断がつけられる。

と,仕事に置ける,自己責任の取り方を,常々おのれに言い聞かせてきた(それが常にできたとは言わないが)。それは,生き方においても同じなのではないか。

人事を尽くして天命をまつ,

という言葉が好きになれないのは,どこかに,決裁を仰ぐ姿勢がある。しかし,神田橋條治氏流に,

天命を信じて人事を尽くす,

か,清澤満之の,それを,

天命を安んじて人事尽くす,

に換えたものの方が,自責に近い。天命というと,場違いかもしれないが,おのれの役割,使命と置き換えてもいい。

生きるのも為すのも自分である。他力に頼ったところで,それにすがってやったのでは,自責ではない。他力本願とは,ある意味,すがることの放棄である。

はからい

を捨てることである。それは,逆に言うと,何かをしたからとか,しなかったから,というおのれの思い入れや希望や仮託を捨てることである。それは,自分の責任で生きる,ということに他ならない。

天命

は,ただ,それを自覚しなければ,耳にも心にも聞こえない。主体的なかかわりの中で,自分の責任で生きる。その結果を忖度しない。

他力には義なきを義とす

とは,

「『義』とは,自力のはからいをさしているから,人間の思慮や作為を否定するのが他力である」

意味とされる。だからと言って,どんな生き方をしてもいいということではない,と思っている。『歎異抄』の,

「善人なほもて往生をとぐ,いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく,『悪人なほ往生す,いかにいはんや善人をや』。
この条,一旦そのいはれあるに似たれども,本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは,自力作善の人(善人)は,ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ,弥陀の本願にあらず。しかれども,自力のこころをひるがへして,他力をたのみたてまつれば,真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は,いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを,あはれみたまひて願をおこしたまふ本意,悪人成仏のためなれば,他力をたのみたてまつる悪人,もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ,まして悪人はと,仰せ候ひき。」

も,だからと言って,自責なき生き方をしていい,という意味ではない。おのれの人生の舞台で,おのれの天命を尽くす,後は,計らいをいれない。

其の道を尽くして死する者は,正命なり

と,『孟子』にあるのもそれである。

中島らもが,

「人間にはみな『役割』がある。その役割がすまぬうちは人間は殺しても死なない。逆に役割の終わった人間は不条理のうちに死んでいく。」

と言っていた(そうだが,そういう)のも,それに違いない。スピリチュアリティにおいてすら,

「人生には目的があります。しかしその目的は,それに携わる人間が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。笛に踊らされる人形ではないのです。…あなた方には個的存在としての責任と同時に,ある限度内の自由意志が与えられているのです。」

という。それは,

「内部に完全性を秘めそれを発揮しようとしている未完の存在」

であるからこそ,

「人生はしょせんは一つの長い闘いであり,試練です。魂に秘められた可能性を試される戦場に身をおいている」,

その場で,「この世に存在する目的」を果たす努力なしにはない,それを通して,

「自分とはいったい何なのか,如何なる存在なのか,如何なる可能性をもつか」

を悟ることはない,と言っている。神田橋條治さんのいう,

遺伝子の可能性の開花,

もそれだし,孟子の,

万物皆我に備わる,

というのもそれであり,

之を求むるに道あるも,之を得るに命あるは,是れを求むることを得るに益なきなり。外に在る者を求むればなり。

というのもそれである。

仏性
といい,
一切衆生悉有仏性,

というのも,またおのれの中にある。

「仏性を開発自由自在に発揮することで,煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく,また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び,仏法修行の究極の目的とされている。」

という(説明される)のにも通じる。

参考文献;
アン・ドェーリー編『シルバー・パーチの霊訓(一)』(潮文社)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)






今日のアイデア;
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