2015年01月09日
マイペース
人は人のペースで話す。それは,その人の思考の流れ,あるいは,考えるスピードとも関係する。また,当たり前のことを言うようだが,クライアントが,自分のペースで話すようにする,ということをどう守るか,というか,どう尊重するか,というのは,何も,コーチングやカウンセリングといった,援助関係に関わるだけのことではないのではないか。
言ってみると,基本的に,
聴く,
というのは,相手のペースに沿うということだ。当たり前すぎて,何をいまさら,と言われそうだが,そもそも,
共感性,
というのが,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/410724005.html
で,書いたように,相手の見ていること,感じていること,考えていることを,あたかも自分自身のように,受け止めるということだ。そこには,
テンポ
というか
ペース
も,当然含まれる。
よく,楽しくしゃべらせるだけではだめだということを聞くが,
聴くというのは,本質的に,相手のペースを見届けるというか,見守るということなのかもしれない。
言語のスピードの20~30倍で意識の流れがあるというが,それを言語化するのが得手の人とそうではない人がいるる。
僕がテンポやスピードを見守る,というとき,もちろんしゃべるスピード,テンポもあるが,思いや感じ,気づきを,言語に置き換えなくては,相手には伝わらない。その言語化するスピードを指している。
言語化のスピードは,頭の働き,と言いうよりも考えるスピードと合っている。速いスピードほど頭がいいとか,切れるとか,ということととは全く関係ない。単なる早飲み込み,早とちりということもある。むしろ,言語化に当たって,思いをどう適切な言葉に当てはめるかで,伝わる中身にずれが生まれる。そのずれにこだわるタイプかどうか,ということだ。それが,
思考スタイル
なのだと思う。そのスタイルに是非も優劣もない。問題は,その言語化のペースをキチン化と見守れるか,ということに尽きる。沈黙のなかには,そういう意味も含む。ただ,
どう応えようか,と思案していること
と,
どういう意味だったのだろうと,相手の質問や返答に拘泥していること
と
どういう言葉,言い回しにしたら,的確に思いが伝わるかを考えていること
とは,
かなり違う。
発話の意味は,受け手の反応によって明らかになる,
と言われる。つまり,
継続する会話によって,先行する会話の意味が組み替えられる,
のである。どう応えるかは,そのまま文脈を変え,意味自体を変えるかもしれないのである。そこまでを含めて,相手のテンポを見守る,という意味を込めている。
それでなくても,聞き取れる語彙数は,話す語彙数よりはるかに多い。つまり,相手が話す先から,聞き取れているという状態が,常態なのだ。
ベイトソンは,
コミュニケーションを決めているのは,送り手ではなく,受け手である,
という。このことは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163522.html
で触れた。その答を待たなくては,会話の文脈は成立しない。なぜなら,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163109.html
で触れたように,
「大切なのは変化を起こすことではなく,会話のための空間を広げることである。治療における変化とは,対話を通じて新しい物語を作ることを意味する。そして対話が進むにつれ,まったく新しい物語,『それまで語られることのなかった』ストーリーが,相互の協力によって創造される。」(H・アンダーソン&H・グーリシャン「クライアントこそ専門家である」)
つまり,現実の見え方を変えていくことである。新しい言葉をえることで,
視界が変る,
のであれば,その言葉を聴きとらなくてはならない。社会構成主義ふうに言うなら,
・現実は人々の間で言語(会話)を通して構成される。
・人は他者との会話によってはぐくまれる物語的アイデンティティのなかで,そして,それを通して生きる。「自己」は常に変化し続けており,セラピストの技能とはこのプロセスに参加する能力を意味する。
となる。現実は,その人の(物語の)中にしかない,だからそれはその人の頭をのぞくしかない。共感性,つまり,
相手の内面的枠組みを “あたかも”その個人で“あるかのように”,情緒的要素や意味を正確に理解すること,
が聴くことに不可欠なのは,考えれば当たり前である。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください