2015年01月13日

征夷大将軍


二木謙一監修『征夷大将軍の真実』を読む。

源頼朝の鎌倉幕府の九代から,足利幕府の十五代を経て,徳川幕府の第十五代徳川慶喜までの,全将軍を描く。

征夷大将軍は,東国蝦夷制服を目的に,延暦十三年(794)桓武天皇が平安遷都と同時に,大伴弟麻呂(おとまろ)を征夷大将軍に任じ,蝦夷討伐を命じたのが,嚆矢とされる。従来,坂上田村麻呂を最初の征夷代将軍としてきたが,このとき田村麻呂は,副将軍であった,という。

しかし,その以前から蝦夷征伐軍を派遣しており,和銅二年(709)には,巨勢麻呂が,「陸奥鎮東将軍」に,養老四年(720)には多治比県守が「持節征夷将軍」に任ぜられ,延暦七年(788)に紀古佐美が「征討大将軍」に任じられたことがある。

しかし,一貫して蝦夷征伐がその役割であり,延暦十三年の征討では,実質,坂上田村麻呂が指揮を執り成果を上げ,翌年征夷代将軍に任命された。田村麻呂の活躍で,征夷大将軍の称号が,武臣第一の栄職,との伝統が生まれた。

以上が,征夷大将軍の前史である。

その後も東国に兵乱が起きるたびに,臨時に征夷大将軍が任命されたが,この称号の転機は,

「寿永三年(1184)正月,木曽義仲の征夷大将軍任命である。」

という。ここで意味が,征夷ではなく,「内乱に対して」任命され,

「『東国の兵馬の権』を握る武将としての職」

に変わる。「源頼朝の征夷大将軍は,義仲の前例にならった」ものであった。

この征夷大将軍というのは,

「中国で皇帝に代わって東方に遠征した将軍」

をまねたものだが,日本では,台頭してきた武士たちの間では,朝廷から大権を与えられる征夷大将軍を,

「天下第一の武将」

を指すものと認識するようになり,特に,

「源頼朝以降の征夷大将軍は臨時の閑職ではなくなって常設の官職となり,700年物長期にわたった武家政権の,頂点に立つ者の呼称となった。」

という。なお,征夷大将軍を,大樹公と呼ぶのも,中国出典で,『後漢書』「馮異伝」によると,

諸将が手柄話をしているときに馮異はその功を誇らず,大樹の下に退いた,

という逸話によるらしい。ついでに,幕府というのも,中国出典で,

皇帝に代わって遠征した征夷大将軍の幕舎

を指す。

ところで,本書によると,そういう歴史の始まりである源頼朝は,上洛した折,征夷大将軍を望んだが,

「後白河法皇は,…権大納言兼右近衛大将を頼朝に与えた。この役職は朝廷の公事に参加する義務があり,後白河は頼朝を京に留め置けば,位の頂点に君臨する自身を尊崇するしかなく,やがては頼朝を籠絡できると考えた…」

ようだが,頼朝は鎌倉へ帰る前に,それらを辞任し,「前右近衛大将」という肩書で,「前右近衛大将家政所を開設した」。幕府を開くのに,征夷大将軍の肩書はいらなかった,ということらしい。二年後の建久三年,後白河法皇崩御後,朝廷は,頼朝に,征夷大将軍に任じた。しかし,建久五年(1194),その征夷大将軍を辞任している。

「征夷大将軍はもともと令外官で朝官の職としては低く,近衛大将のほうがはるかに上位で,武家政権の首長としては『鎌倉殿』の地位で十分だった」

と,著者は書く。事実,源氏三代では,「鎌倉殿」が重視されていたようである。

鎌倉,室町,江戸幕府の全39人の将軍を見ていて,おもしろいのは,鎌倉幕府は,結局執権北条家が実権を握り,四代目からは,たんなる傀儡将軍を,京から親王を迎い入れてきた。室町時代も将軍は,名ばかりの時代が長い。徳川家康は,

「徳川氏が征夷大将軍として永遠の政権掌握者とするために,鎌倉幕府や室町幕府の在り方を研究」

したようで,強固な幕府組織を構築したため,幼少な将軍や病弱な将軍でも老中を中心とした幕閣が支える体制を作り上げ,結果として,傀儡と同じ形になっていった。ただ一度,延宝八年(1680),三代将軍家綱が危篤に陥った折,後継問題で,

「幕政を専断する大老酒井忠清は,鎌倉幕府の親王将軍に倣って有栖川宮幸仁親王を次期将軍に推し,北条氏のように執権政治を目論んだ。」

ということがあった。だが,弟がおり,

「忠清が押し切る形で決まりかけたが,春日局の義理の孫の老中堀田正俊は,徳川家の正当な血統として綱吉を強く推して反対した」

結果,綱吉が五代将軍になった,という。

この武家政権の歴史の中で,平氏と,織豊時代だけは,異質である。

織田信長が最終的に何を考えていたかははっきりわからないが,安土城に残された遺構や最近の研究から考えると,幕府を設立するという意思はなかったのではないか,という色合いが強い。秀吉の場合は,明らかに,その身分や経緯から,征夷大将軍にはなれなかったという説もあるが,大阪城という立地から考えると,別の見方も成り立つ。この二人だけが,ひょっとすると,武家政権の700年の中では,平氏とともに,武門の棟梁としては,異質な政権,という気がする。

ともに,政権基盤を確立できない間に,崩壊したので,ただ独裁制のみが際立つが,その色合いだけでも,他の政権とは異質である気がしてならない。





参考文献;
二木謙一監修『ほんとうは全然偉くない 征夷大将軍の真実』(SB新書)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 06:34| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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