2015年01月14日
気
中国絵画における,気の表現については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/401855141.html
で触れたが,僕は,気というと,
浩然の気
という言葉がすぐに浮かぶ。浩然の気とは,
曰く,言い難し。その気たるや,至大至剛にして直く,養いて害うことなければ,則ち天地の間に塞つ。その気たるや,義と道とに配す,是なければ餒うるなり。是れ義に集いて生ずる所の者にして,襲いて取れるに非ざるなり。行心に慊(よか)らざることあれば,則ち餒う。
と,まあ,注釈では,
天地にみなぎっている,万物の生命力や活力の源となる気。
物事にとらわれない,おおらかな心持ち。
とある。「天の和気」が浩然の気とされる。では,そもそも「気」とは何か。これはなかなか難しい。
漢字の「気(氣)」は,まず,
「气」は,遺棄が屈折しながら出て来るさま,
といい,
「气+米」で,米をふかすとき出る蒸気
を指す。漢字の「気」の意味は,
①息。「気息」「呼気」
②個体ではなく,ガス状のもの。「気体」「空気」
③人間の心身の活力。「気力」「正気」
④漢方医学で,靭帯を守り,゛い名を保つ陽性の力のこと。「衛気」
⑤天候や四時の変化を起こすもとになるもの陰暦で,二十四気。「節気」「気候」
⑥人間の感情や衝動のもととなる,心の活力。「元気」「「気力」
⑦形はないが,何となく感じられる勢いや動き。「気運」「兵革之気」
⑧偉人のいるところに立ちあがるという雲気。「望気術」
⑨宋学で,生きている,存在している現象を言う。「理気二元論」
⑩かっとする気持ち。「動気」
となるが,日本語で言う「気」は,固有の日本語としてはない言葉で,漢字の音をそのまま使い,
目に見えないが,空中に満たされているもの,
といった意味で,漢字の意味を流用しながら,微妙に違う意味にスライドしている。
①天地間を満たし,雨中を構成する基本と考えられるもの。またその動き。
・風雨・寒暑などの自然現象。「気象」「気候」「天気」
・15日のたは16日間を一期とする呼び方。三分してその一つを,候と呼ぶ。二十四節気。
・万物が生ずる根元。「天地正大の気」
②正命の原動力となる勢い。活力の源。「気勢」「精気」「元気」
③心の動き・状態・働きを歩赤津的に表す。文脈に応じて重点が変る。
・(全般的に見て)精神。「気を静める」「気が滅入る」
・事に振れて働く心の端々。「気が散る」「気が多い」
・持ちつづける精神の傾向。「気が短い」「気がいい」
・あることをしようとする心の動き。つもり。「どうする気だ」「気がしれない」「まるで気がない」「やる気」
・あることをしようとして,それに惹かれる心。関心。「気をそそる」「気を入れる」「気がある」「気が乗らない」
・根気。「気が尽きた」
・あれこれと考える心の動き。気遣い。心配。「気を揉む」「気に病む」「気を回す」「気が置ける」「気になる」
・感情。「気まずい」「気を悪くする」「怒気」
・意識。「気を失う」
・気質。「気が強い」
・気勢。「気がみなぎる」
④はっきりとは見えなくても,その場を包み込み,その場に漂うと感じられるもの。
・空気。大気。「海の気」「山の気」「気体」「気圧」
・水蒸気のように空中にたつもの。気(け)。
・あたりにみなぎる感じ。「殺伐の気」「鬼気」「霊気」「雰囲気」
・呼吸・息遣い。「気息」「酒気」
⑤その物体本来の性質を形づくるような要素。「気の抜けたビール」
等々,僻目かもしれないが,どうも,具体的にもの,形而下的な,あるいは現象としての「気」にシフトして使われている気がしてならない。矮小化する,というと貶めすぎだろうか。
たとえば,元気は,
天地の間に広がり,万物生成の根本となる精気
を指し,「儒教における生成論で宇宙の根源である太極に呼応する概念,『元気・陰陽・四時・万物』の一つ」とされるのに,
活力の源となる気力
から変じて,
健康で勢いのいいこと
と,心と体の活動性を示す言葉に代わっている。
精を練って気に化し,気を練って神に化する
ときにも「気」であるし,五気朝元,つまり,
木・火・土・金・水
の五気(五行)が,「元」に帰一する,「気」であり,さらには,
陰陽二気
の「気」であり,そして,
「神を練って虚に還し,復た無極に帰す」
と,循環する。
「万物は五行に還元せられ,五行は陰陽に還元せられ,陰陽は太極に,太極は無極に還元せられる」
という宇宙観の背景にあるのが,「気」となる。
中国で「気」の哲学される張横渠は,
「天地は虚を以て徳となす,至善なるものは虚なり」
として,「虚の極致,『太虚』」が天地宇宙の別名とする。
「太虚とは…気の充満」であり,
「聚まりて万物とならざることあたわず,万物は散じて太虚とならざることあたわす」
として,
万物は気の凝集によってできたものであり,その気は宇宙合そのものを形成している。
人も万物も「気の海」に浮かんでいる,
とは,まるで,気は「原子」そのものようである。だから,張横渠の哲学は「唯物論」と位置づけられる,と言う。
「気は坱然たる太虚にして,あるいはのぼり,あるいは降り,あるいは動,あるいは靜,あるいは屈し,あるいは伸び,飛揚して一瞬もとどまることがない。これがすなわち『易』でいうところの『絪縕』である。」
『易経』には,
天地絪縕して万物化醇し
男女精を構せて,万物化生す
とある。絪縕とは,「密接にまじりあうこと」という。
「気は不思議な存在である。どこまでも同じ一つの気でありながら,しかも同時に,常に必ず陰陽二気である。二にして一,一にして二,本質的に矛盾的な存在である。いっさいの存在は,このような気(陰陽)の自己運動の過程からせいりつしてくるものにほかならない。それはあたかも水と氷のごとくであって,すべての存在は変化の途中におけるただ一時形,ちょうど水の一部分が氷となって浮かんでいるようなものである。」
このような気の自己運動から,万物が生まれる。
「気によって化する」
そこにこそ「道」がある,と言うのである。
「太虚によりて天の名あり,気化によりて道の名あり」
と。島田虔次氏は,こう表現する。
「『道』とは,野馬,盛んな活動状態を内に含みながら,しかもこのうえないハーモニー,すなわち『太和』を保っているところ,そこにこそ『道』があるのである。」
と。そして,
「生とは気の集結であり,死とは気の解散」
である,と。この先に,理気二元論の朱熹が来るらしいのだが,ま,それは別の話として,こう「気」を振り返ってみると,
「浩然の気」
が,単なる,
天地にみなぎっている,万物の生命力や活力の源となる気。
物事にとらわれない,おおらかな心持ち。
ではないはずである,天地生成の気を感じ,おのれが,道を意識している,という気概まで含んでいるように見える。
「志は気を師(率)いるものなり。気は体を充(統)ぶるものなり。夫れ志至れば,気はこれに次ぐ。故に曰く,其の志を持(守)りて,其の気を暴(害)うこと無れ。…志壱(専)らなれば気を動かし,気壱らなれば則ち志を動かせばなり。」
とはこの心境か。
参考文献;
島田虔次『朱子学と陽明学』(岩波新書)
高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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