2015年01月15日

慶次


今福匡『前田慶次と歩く戦国の旅』を読む。

正直,歴史好きに世評高いという,「前田慶次」については,ほとんど知らない。したがって,慶次に関わる本を読んだのは,これが最初である。

前書きに言う。

「本書は,後世,傾奇者として有名になった前田慶次が著したとされる『前田慶次道中日記』の行程を辿りながら,慶長六年という無視されがちな年の列島の光景をすくいあげていこうとするものである。」

若い頃ならいざ知らず,六十九歳の慶次には,傾奇者の欠片も見えない。

傾奇者として有名な,佐々木道誉もそうだが,個人的な趣味であって,本人自身がどんな生きざまであるかとは,関わりがない,と思っている。多くは,後世の人間が,おのれを仮託した思いを背負わされているだけではないのか。

むしろ,慶次は,本来,前田家を継ぐべき人間であったという経歴の方に惹かれる。

慶次,すなわち前田宗兵衛は,

前田家の当主,つまり利家(又左衛門)の長兄利久(蔵人)は実子がなく,滝川一益の甥(と言われている)の慶次を養子に迎え,同じく利家の兄五郎兵衛の娘を利久の養女として娶せられた。

当然,前田家の当主となるべく迎えられたのである。しかし,織田信長が,荒子城主前田利久に対して,弟利家に家督を譲るように命じた。その理由は,

内子縁により,異姓を以て宗を継がしめる故

という。つまり,慶次を養子に迎えていることを指している。まあ,はっきり言って,犬千代時代から信長につかえ,赤母衣衆でもあり,信長と肉体関係もあった利家への贔屓と言っていい。

この理不尽さが,彼を傾奇者にしたと言っていい。世をすねなくてはやっていけないのである。前田家家臣として,関東御陣(小田原攻め)まではあった,とされる。

前田家出奔に当たっては,利家が,世を憚らざる行状を叱りつけたのに対して,

「万戸候の封といふ共,心に叶はずば浪人に同じ。只心に叶ふをもって万戸候といふべし。去るも止まるも所を得るを楽と思ふなり。」

と嘯いたと言う。五千石位を知行していたはずの慶次にとって,「心に叶わない主人にいやいや仕えていても,幾ら知行が多くても浪人と同じ」と出奔したという。普通は,後藤又兵衛が,黒田家を出奔して,「奉公構」と,諸家に触れられて,ついに大坂城に入場するしかなかったように,他家に仕えることは叶わなかったはずである。しかし,秀吉の口利きなのか,上杉の客将として迎えられることになった。

この背景にあるのは,豊臣秀吉が前田利家の甥の名を聞きつけ,召出すように命じた。その折,「大層変わった姿形で伺候するように」という注文がついた。

「前田慶次は髪を頭の片方に寄せて結い,虎の皮の肩衣,異様な袴を着して登場した。衆目が集まる中,慶次は秀吉の面前で拝礼する際,わざと頭を横に向けて畳につけたため,頭は下げても顔はそっぽを向いている格好になった。その時に髷の部分がまっすぐ上を向くように,横に結っていたのである。秀吉はすっかり面白がって,
『さてもさても変りたる男かな。もっと趣向があるであろう。そのほうに馬一頭をとらせる。直々に受けるがよい』と声を掛けた。秀吉の面前で褒美を受けるには,それなりの礼儀が必要である。慶次は,…いったん退出した。間もなく慶次は普通の衣服に改め,神も結い直し,礼法にかなった装束・所作で再登馬した。」

というエピソードで,秀吉から,

「今後はどこなりとても,思うがままに傾いてみせるがよい。」

と,「天下御免」を許されたというのである。しかも,武功は数え切れず,

「学問歌道乱舞にも才能を発揮し,とりわけ『源氏物語』の講釈,『伊勢物語』の秘伝を受けており,まさに文武の士」

であるという。

本日記は,その慶次の,上杉の減封・移封された米沢までの二十六日間の旅なのである。しかも,前年の慶長五年に,関ヶ原の合戦があった翌年のことである。その意味では,まだ徳川時代の街道整備がなされる以前の,変わりゆく街道の様子を伝えているが,慶次らしさは,ほとんど見受けられない。傾奇者どころか,ところどころさしはさむ歌にも,僕にはほとんど見るべきものがなかった。

みどころは,時代の転換期,織豊から徳川治世へと整っていく前の,中世の名残りをとどめたところくらい,と言うと言いすぎであろうか。

関ヶ原合戦直後というのに,そういうことについての言及はほぼなく,徳川については「と」の字も触れていない。一か所,浅香山で,塚を見つけて,「いかなる塚ぞ」と,村人に問う。

「石田治部少とかいう人が,今年の秋のはじめ頃京より送られてきた」

と答える。関ヶ原合戦の翌年である。早くも,

「京よ共り送られてきたという『石田治部少』を村の境へ送り出す」

いわゆる「虫送り」「神送り」の変形である。

「とかいう『石田治部少』を送る一行の中心は,六体(治部少,治部少の母,治部少の妻等々)の人形,青草・柳の葉で編んだ『ふねと』であり,五色の幣を立てている。五色の幣も五行思想にちなんだものである。
先頭には松明百丁をともし,鉄炮二百丁,弓百丁,竹鑓,旗指物にいたるまで取り揃え,赤い地に蘇芳で染め,紙でこしらえた袋の上書きに,「治部少」と書き付けてあった。武具を用意できない者たちは,紙や木の柴を用いて武具らしく作り,大きな杖,刀などをさして行列に加わり,馬乗りは馬乗り,徒歩だちは徒歩だちとわけて進んでいる。
人形を載せた輿の周囲には,称名念仏を唱え,かね,太鼓をたたき,笛を吹く一団がある…。」

在所では巫女が祈祷し,憑依して,

「今年慶長六年,田畠の荒れたるは,わが技にはあらずや」

と叫ぶ,という。慶次は,書く。

「死んだ後までも,人々を畏怖させる,石田三成という人物も,ただの人物ではなかった」

と。

しかし,この本を読んで思い出したが,小田原攻めで,周囲から目立つ美麗な鎧兜と旗印で,先駆けをし,討死した武者がいた,と記憶している。名前を探したが見つからなかった。傾奇者というなら,こう言うタイプの武者こそそうなのではないか。老いた前田慶次には,そういう気概も意気も,この日記からは感じとれなかった。

参考文献;
今福匡『前田慶次と歩く戦国の旅』(歴史新書y)




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posted by Toshi at 04:44| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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