2015年01月23日
名字
武光誠『名字と日本人』を読む。
もうずいぶん昔のことだが,いっとき,自分の過去を探ろうとしたことがある。しかし,菩提寺の過去帳も,区役所の戸籍も空襲で焼け,曾祖父より先へはたどれなかった。本書では,「先祖さがしと名字」の章を設けているが,この二つのない場合,手掛かりが薄く,探るのは難しいようだ。尾張藩士だから,藩関係からたどれば,本家もあるし,そこから別れた二分家の一つでもあるから,探りようはあったが,別に由緒正しき家系でもない。その事実を知っただけで,やめた。過去に,おのれの出自に意味があるのではなく,出自は,おのれ一代でつくるべきもの,ということだなのだろうと,受け止めたからだ。
しかし,名字ということへの関心だけは残った。だからか,この本が,「姓(かばね)」の記事の中で紹介されていて,取り寄せた。肝心の元の記事を読んだ本が何だったかがわからなくなっているのだが。
天皇家が姓がないことについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/407928557.html
で触れたが, 日本では,二十九万余の名字があるらしい。ただその中には,斎藤と斉藤,島田と嶋田と嶌田,中田と仲田のような,「同じ概念から起こったとみられる名字」があるので,それらを一つと見なすと,9~10万通りになる。
名字は,武家身分の者だけが名字を公称することが許されていたので,江戸時代明治の戸籍制度ができたときに,適当に付けたものだろう,という先入観が強いが,著者は,
「江戸時代の農民や町人の多くが,名字を私称したり屋号をや通称を代々つたえていた。」
という。
「長野県坂北村の碩水寺の,天明三年(1783)と文化一三年(1816)の二度の本堂債権のさいの寄進帳…。二度の寄進帳に出てくる,何百と言う寄進者のひとりひとりが,すべて名字をなのっていた。」
あるいは,
「文化一三年(1830)に,富士山の御師で大蔵景政という者が作成した富士講…の名簿がある。それは,信濃国南安曇郡の南半分三三か村…の二三四五人中で,名字のないものはわずか一六人である。」
公的な五人組帳には名字を書かないで,同じ村の寄進帳には名字を書くと言う使い分けをしている例もあるようである。つまり,
「江戸時代の農村では名字を私称することがふつうで,名字をもたない農民が例外的なものであった…。とくに中部地方以東では『水呑百姓』とよばれた小作人まで名字を名乗っていたことを示す文献が多く残っている。」
という。地域的に領主や上層農民が名字を許さなかった例を除くと,ほぼ名字を私称していた,というのである。この「私称」と言うところが,名字の特徴なのである。
名前の言い方に,氏名,姓名,名字,苗字等々があるが,姓,氏,名字(苗字),それぞれが全く由来と歴史が違うのである。
まずは,名字と苗字。文部省が,「名字」。学校教育上は,「名字」が正解。法務省は,「氏」を正式名称としているので,「氏名」が使われる。
「氏」は,「藤原氏」「大伴氏」等々のように,もとは古代の支配層を構成した豪族を指した。「氏」の構成員は,朝廷の定めた氏上(うじのかみ)に統率されていた。地方の中小豪族や庶民は「氏」の組織をもたない。
「姓」は,天皇の支配を受けるすべてのものが名乗る呼称とされた。古代の豪族層と一部上流農民は,「臣(おみ)」「連(むらじ)」「造(みやつこ)」「直(あたい)」「公(きみ)」「首(おびと)」「史(ふひと)」「村主(すくり)」「勝(すくり)」などの「かばね」を与えられ,庶民の多くは,「山部」「馬飼」などの「かばね」を含まない姓で呼ばれた。
天武天皇が684年(天武13)に,八色の姓(やくさのかばね)が制定され,「真人(まひと),朝臣(あそみ・あそん),宿禰(すくね),忌寸(いみき),道師(みちのし),臣(おみ),連(むらじ),稲置(いなぎ)」の八つの姓が定められ,さらに,一般の公民は,670年(天智天皇9年)の庚午年籍,690年(持統天皇4年)の庚寅年籍によって,すべて戸籍に登載されることとなり,そこでも漏れたものは,757年(天平宝字元年),無姓のままの者,新しい帰化人等々にも氏姓が与えられるようになった。
つまり,姓は,朝廷に与えられるものであった。それに対して,名字は,平安時代末に武士の間で生まれた通称である。
「たとえば,北条時政の名字が『北条』であり,彼の姓は「平朝臣」である。」
ただ,氏姓制度は平安中期に崩れたので,「かばね」はすたれて省略され,「平」が姓となる。
「平素は『北条時政』と名のっているが,朝廷の公式行事の場では『平良孫時政』と称した。」これは,江戸時代末まで朝廷支配に関する場面では,「姓」が用いられ,「徳川家康に位階や官職を与える文書には『源朝臣家康』と書かれる。」ことになる。因みに,
毛利輝元は,「大江朝臣輝元」
前田利家は,「菅原朝臣利家」
となる。その意味で,羽柴秀吉が「源でもなく平でもなく『豊臣』の姓」を賜った意味が,よりよく見えてくる。
さて,通称である名字が広まると,ということは,
各地の在地の武士たちの力が強まると,
と言い換えてもいいが,「菅原」「藤原」は,姓をもとにしたものになのに,「名字」と受け取るようになっていく。
「名字」の名は,領地をあらわしている。しかしやがて,中世になると,「出自をあらわす名」を意味する「苗字」と書かれるようになる。江戸幕府は「苗字」を正式表記とした。「苗字帯刀」の苗字である。
本来,姓と苗字は,別のもので,姓は朝廷から与えられるもの,苗字は私称するもの,である。朝廷から与えられる必要がない,「勝手に自称した通称」であり,そういう自立というか,矜持を背景にしているように思える。事実,鎌倉武家が,私称を事実上公称を上回るものにしていく。
名字の十大姓と呼ばれているのが,鈴木,佐藤,田中,山本,渡辺,高橋,小林,中村,伊藤,斎藤,であるが,人口の10%は,この名字と言われ,上位100位の苗字を持つものが,人口の22%と言われているそうだ。
因みに,佐久間ランキング(佐久間英『日本人の姓』〈六芸出版〉による)は,
http://www11.ocn.ne.jp/~dekoboko/hobby/myouji/sakuma/index.html
に出ている(自分の名字は,183位。70万人いるらしい)。その中で一位なのは,鈴木姓で,人口の1.3%,この背景には,
「熊野信仰を持つ全国の有力農民の間でこの名字が好まれたことを抜きには説明できない」
と,著者は次のように,説明する。
「熊野大社の神官は,古代豪族物部氏の同族の穂積氏であったが,かれらは中世に『穂積』が主に『すすき』とよばれるようになると『鈴木』を苗字にした。そして,中世に熊野大社は各地に山伏を送って意欲的に布教した。熊野大社を祀るようになった武士は,自分の名字を鈴木に改め支配下の農民に自分と同じ苗字を与えた。ゆえに,『鈴木』の苗字は熊野大社の末社の分布が濃い東海地方や関東地方に多い。」
では,次に多い佐藤姓については,
「藤原秀郷の子孫にあたる藤原系の武士が名のった名字である。秀郷の五代目の子孫にあたる藤原公清,公脩の兄弟が,祖先の秀郷が下野国佐野庄…の領主であったことにちなんで『佐野』の『佐』と『藤原』の『藤』とをあわせた『佐藤』を名字にした。」
と言う。では三位の「田中」は,と言うと,
「人びとが新たに土地をひらいて集落をつくったときに,そこの有力者が村落の中心部分に住んで『田中』と名のった。そして,その名字がしだいにそこの中流以上の農民のあいだにおよんでいったのだろう。ゆえに,『田中』の苗字は,『鈴木』や『佐藤』の苗字の広まらなかった近畿地方から北九州にかけての地域に比較的多い。」
と言う。それは,中村性,山本性,小林姓も,田中に似た性格をもつ,と言う。
「『山』や『林』は,村落をまもる神社が作られた神聖な場所をあらわす。集落の指導者で,代々神社のそばに住んでまつりを行なっていた家が,『山本』や『小林』の名字を名のった。」
日本の名字で「貴少姓」は,一,二万位とされる。名字は,多く,地名と深いつながりを持っている。「貴少姓」も,地名に基づくことが多い。著者は,
「苗字は地名からつくられる。」
と言う。地名発祥は,全体の70%と言う。古代豪族の姓は地名や職名に由来するが,その70%は住んでいた地名に由来する,という。
考えれば,私称したのは,在地の有力農民,そこから力をもった武士である。地名には,意味があるのである。
ひとつひとつの名前には,おそらくいろいろな由来がある。著者は,先祖さがしは,日本史につながり,日本の特徴が見えてくるという。確かに,わずかいくつかの例をあげただけで,遠く開けていく視界がある。
なかなか名字の来歴は,奥が深い。
参考文献;
武光誠『名字と日本人』(文春新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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