2015年01月29日

仏像


何年かぶりかに,奈良を再々再訪し,多くの仏像を拝見してきた。

浄瑠璃寺の九体阿弥陀如来像,
岩船寺の阿弥陀如来像・四天王立像,普賢菩薩騎象像,十一面観音像等々,
興福寺の千手観音像・阿修羅像等々,
法隆寺の釈迦三尊像,薬師如来像,その他諸仏,
中宮寺の菩薩半跏像,
法輪寺の薬師如来像,十一面観音菩薩,その他諸仏,
法起寺の十一面観音菩薩,
新薬師寺の,薬師如来と十二神将,
白毫寺の阿弥陀如来像,
東大寺の盧舎那仏像,千手観音菩薩像,

等々。次々に見ているうちに,他の仏像と紛れて印象が薄れていくが,最初の日に見た,興福寺国宝館の,

阿修羅像と向き合って置かれていた千手観音像,

http://www.kohfukuji.com/property/cultural/099.html

が圧倒的に印象に残っている。その他,法隆寺の薬師如来,新薬師寺の薬師如来,法輪寺の薬師如来もいい。

しかし,記憶のそれと,写真のそれとでは,まったく印象が違う。記憶が日々,薄れていくにつれて,写真で思い起こそうとするが,写真のそれでは,その瞬間受けた印象が,蘇らない。

いまも印象にあるには,興福寺の大きな千手観音像の前に立った時の,その全体が醸し出す,雰囲気の中で,じっと立ち尽くしていた時の心持である。

勝手な思い込みだが,いい仏像を前にすると,大きさや輝きとは別の,大いなる雰囲気,醸し出す空気の中にいる,という感じがしてくる。引き込まれるとか,圧倒されるとかといったこととは異なる,周りには人のいないかの如く,ただその仏と一対一で向き合っている,そんな感じである。包まれているとか,見つめられている,と言うのとも少し違う。ただ,そこに立つ自分に対して,確かに,

向き合っている,

という感覚なのである。それは,写真からは,味わえない。たぶん,もう二度とはお会いしないだろうに,

もう少しじっくりとそこにたたずんでいればよかった,

という悔いが,微かに残る。多く仏像は,保存のため,宝物館のような建物に,別に写されて,安置されているケースが多くなった。それでも,たとえ,ガラス越しでも,その一対一感覚は,確かにある。

それは,あるいは,

自分と向き合っているのかもしれない,

と思う。自分自身の現在・過去・未来と,一瞬の,いま・ここに,顕現するように,向き合う,というものなのかもしれない。そういう自分との向き合いを促す雰囲気が,あるのかもしれない。自分の思い込みかも知れないが,そういう仏像に出会うことが,ある。今回の旅では,興福寺の,

千手観音像,

がそれであった。なかには,

オンコロコロセンダリマトウギソワカ

と,真言の張り紙のあるところがあった。薬師如来像の前の柱に,であった。確かに,そうなのだろう。しかし,僕は,そういう経文を捨てて,たた,仏像と,

真正面に向き合う,

ことが大事なのではないか,という気がしてならなかった。思わず,口の中で誦しはしたが。

虚心坦懐

に臨める雰囲気を,醸し出している仏像というのがあり,その前で,確かに,

自分が,心を開いて佇んでいた,

という機会が,何回かあり,その中で,

千手観音像,

が強く印象付けられている,これが今回の収穫である。再度訪れる機会は,ないかもしれないが,こういう経験をするために,仏像を拝見に行きたい,いや,この経験を探すために,仏像を尋ねるのかもしれない。

最後に,二十年以上前,再建前の中宮寺の,ひなびた建物の中で,尼さんが案内してくれた雰囲気の記憶をぶち壊されたコンクリート造りの中宮寺には幻滅し,早々に逃げ帰った。この無神経さは何だろう。せっかくの半跏像が泣いているように見えた。







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:40| Comment(0) | | 更新情報をチェックする
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