2015年01月30日

連歌師


綿抜豊昭『戦国武将と連歌師』を読む。

連歌というと,例の,

ときは今天が下しる五月かな

という明智光秀の,本能寺直前の「愛宕百韻」の発句が思い浮かぶ。戦勝祈願の連歌会は,よく催されたようだが,ことが本能寺の変とつながるだけに,それと絡めた解釈がなされてきた。

それにしても連歌は,今日すっかり忘れられた存在である。しかし,南北時代以降,戦国期は,武士,貴族挙げて,文化の華であった。

著者は,

「『連歌』が知られなくなる契機になったのは,明治維新による社会状況の変化がまず第一に挙げられる。それまでは将軍家や仙台藩伊達家では,年頭に連歌会が催されてきたが,幕藩体制ではなくなった明治時代になると,それらは行われなくなった。
また,『連歌』に代わって,『俳諧の連歌』がよく詠まれるようになり,それが『俳諧』と称され,さらにその一部にしかすぎなかった最初の部分『発句』が独立して,一つの作品として盛んに詠まれ,『俳諧の句』となり,それをちじめて『俳句』と称するようになると,『連歌』はわすれられていく。」

と述べている。俳句の芭蕉は,

「世にふるもさらに宗祇の時雨かな」

と詠んだが,それは連歌師。宗祇の,

「世にふるもさらに時雨のやどりかな」

を受けている。江戸時代には,芭蕉の句で,宗祇の句が背景にあることが分かるほどに,まだ連歌は親しまれ,知識となっていたということがわかる。あるいは,俳書『おくれ草紙』に,

花近し髭に伽羅たく初連歌

と載っているが,これだけで連歌師宗祇のことだとイメージできるほどに,身近であった。芭蕉は,『笈の小文』で,

「西行の和歌における,宗祇の連歌における,雪舟の絵における,利休が茶における,其貫道する物一なり。」

と書くほど,連歌(師)の位置は高かった。著者は,和歌・連歌を詠むという表の文学的活動以外に,裏稼業として,情報伝達がある,と言っている。

「関ヶ原の合戦のおり,石田三成から徳川家康弾劾状が諸大名に送られた。常陸の大名佐竹義宣にそれを届けたのが連歌師・猪苗代兼如とされる。」

と,あるいは,駿河の今川氏親に抱えられていた宗長は,甲斐の武田信虎の包囲に合った今川二千の兵を救出するため,和議の使者として,みごとその任を果たしたと言われる。連歌師・宗長にみる,戦国武将に抱えられた連歌師の役割を,お抱え連歌師以外に,

文化人の接待
今川家の記録者
京都との連絡役,交渉役,
他の大名との連絡役,交渉役

を果たしていたとされる。連歌が,武士にとっても公家にとっても教養として高い位置を占めていたことが背景にある。

宗砌という連歌師の書いた『宗砌袖内』には,

「歌一首を分けて,連歌の上下に成す」

とあるように,連歌は,和歌の五・七・五・七・七を,二つに分けて,上句(五・七・五)と下句(七・七)から成る。この連歌を多くの武士が嗜んだ。足利義輝は,

歌連歌ぬるきものぞといふ人の あづさ弓矢をとりたるものなし

とまで言い,「本当の武士というものは,和歌や連歌を詠むことができる者をいう」と言い切っている。昨今の無教養,野卑で,下品なトップに聞かせてやりたいものだ。サムライ心とは,「暴虎馮河」の輩ではないのだ。著者は,

「連歌は,変化に富んださまざまな人生の局面における心情を詠むとともに,自然界の四季折々の変化も詠む。そうしたことが書かれたものを単に『読む』のではなく,そうしたことを自らが『詠む』のが連歌である。……連歌で自然現象や人間の本質などについて表現するという行為を重ねて,『〈自然〉と〈人間〉の理解力を高める』ことができる。戦術ならともかく,戦略を立てる立場の者にとって,それは生き残るために必要な能力であろう。」

と。連歌は,上句と下句を詠みあわせていくため,コミュニケーション・ツールになり得る。たとえば,初の準勅撰連歌集『菟玖波集』に,

我ひとり今日のいくさに名取川    前右近大将源頼朝
君もろともにかちわたりせん     平(梶原)景時

というやり取りが載っている。著者は,

「自分がひとりで今日の合戦で名をあげる,という頼朝の気負いに対して,景時…は家来として,一緒に名をあげる,という忠節心を詠んだところか。頼朝の句は『名取川』に『名をあげる』を掛け,それに付けた景時の句は『徒歩』と『勝ち』を掛けたところが技巧,さらに『我ひとり』に『君もろとも』,『いくさ』に『かち』を付けて応じたところが機知に富み,即興にもかかわらずうまい。」

と述べている。このコミュニケーションである。

さらに,連歌は場を共有する。共に過ごす時間が長い。つまり,連歌は,

「和歌に比して,話をする機会,時間を多くとることができる」

というメリットがある。連歌には,

そもそも連歌とは,上句(五・七・五)と下句(七・七)で詠むだけでなく,さらに,五・七・五と七・七をつけて,長く連ねて続けていく「長連歌」というのがある。戦乱の時代,「百韻連歌」という百句つづけるものが多く行なわれたという。そうなると,「大体,十人くらい」が,一座をなす。その意味で,集団の「結束を図る」のにも利用された。千句連歌というのもあり,そうなると,百とまではいかないまでも,かなりの人数になる。そこを仕切るのに,専門の連歌師が必要になる。

五百年ほど前に成立した和歌の本に『七十一番職人歌合』というのがある。そこの百四十二の職人が,「連歌師」である。連歌師は,ある意味ディレクターでもある。百韻で,十人くらい,順番に句を続けていくが,どうしても,その場を仕切る人が必要になる。

ただ順番に読めばいいのではない。たとえば,

「共同作業ですることであり,たとえば,自分の句を押しつけたりする者がいたり,本来なら初心者が詠むことを控えて,重きをなす人に譲ったほうがよい『月』や『花』を詠んだ句を出したりするので,誰かがしきったほうが,全体のまとまりがよくなる。」

だけではなく,「百韻連歌」は,百韻全体で,一つのまとまった作品となる。その意味では,

「全体を意識していないと,一つの作品として完成度の高いものにならない。各句を見るとともに全体を見通す人が必要とされたのである。」

連歌会での連歌師の仕事で大切なことは,

「連歌が作品として完成し,会の運営がうまくいくよう,全体の流れを整えていくことである。具体的には,全体を意識して,ここではこういう句が欲しいといったアドバイスや,ここでこういう句をいれるとうまく流れていかないからこうしたほうがいいとか,こういう視座で付けるとよいとかいうアドバイスとともに,必要に応じて流れの要所で句を自らが詠むなどし,進めていくのが仕事」

なのだという。そういう連歌と連歌会という者を,戦国武将は,競って嗜んだ。その理由を,著者は,

連歌そのものの享楽
連歌会での家臣や同輩との連帯感の形成
連歌師から中央や他国の情報収集
連歌師を通じた情報の伝達
戦勝祈願といった祈祷
古典教養の学習

等々を挙げた。

「連歌は他人の詠む句に深く関わるという点で,『つながり感』の度合いが異なる。公家以外の連歌会では,現存する絵画資料を見る限り,同じ連衆であるお隣さんとの距離がかなり近い。」

という実際的なメリットが確かにあったのだろう。

「連歌には省略表現や『表の意』だけでなく,『裏の意』を持つ表現などが多い。それでも不都合を生じさせないためには,価値判断の共有が必要である。連歌会は,価値観を共有しているかをお互いが検査する場であると同時に,同じ価値観を共有する集団に属することを認識・確認しあう場でもあった。」

それは,ある意味,「教養を戦わせる場」でもある。戦国期,武士はおのれの教養を高めることにも競い合っていた。それが,トップになっていくための条件であった。茶の湯も,能もまたそうである。

今日,とりわけ戦後のトップ層は,欧米に比べて,知性と教養に見劣りがする,と言われて久しい。ダボス会議でもそうだが,一対一になったとき,すぐに,その無教養さは露呈する。ただ売り上げを誇っただけでは,一員にはなれない。政治家も企業人も,サムライというものの,「文」にもっと着目すべきだ。そんなことをつくづく感じた。トップの恥は,個人ではなく,そういう人物を選んでいる国民の民度を反映している。

参考文献;
綿抜豊昭『戦国武将と連歌師』(平凡社新書)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:37| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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