2015年02月02日

時代性


芝居を観た。

蓬莱竜太作・演出『悲しみよ,消えないでくれ』である。

パンフレットには,

「現実が虚構(フィクション)を超えることが当たり前となった現代社会において、『演劇』を作り続ける意義を問い続け、『正しい解答』を限定し明示するのではなく、観るもの夫々の心の底に沈む『思い』に目をこらし、それをすくい上げるようなひと時を提供する、蓬莱竜太の新作書き下ろし公演。独特の存在感に定評のある俳優でんでんを客演に迎え、劇団だからこそ可能である濃密な劇空間を生み出す。」

とあった。実は,この劇を観つつ,自分の中にあった疑問は,

芝居というライブでなくてはならないという理由とはなにか,

という問いであった。芝居の概要は,

男と痴話喧嘩の末,女がひとり山を下りた,下山した麓の宿で,土砂災害に巻き込まれて,死んだ。その二年後,男の山岳仲間が,例年通り,女の実家である山荘を訪れる。件の男は,二年間,その山荘に居続けている。その一昼夜の出来事である。男は,悲しんでそこにいるとも,悲しみから逃げてそこにいるとも,女を死なせたという非難を避けてそこにいるとも,いろいろ解釈されているが,ちょうどその日,山を下りることになっている,女の妹が,最後に,姉から電話をもらった,と言ってこう打ち明ける。姉は,男に妊娠を告げたところ,おろしてくれ,おろしてくれたら結婚を申し込む,と言われ,断って山を下りたのだという。結局,男は,女に振られたのに,しゃあしゃあと女の実家に,悲しみを装って,転がり込んでいたのだということが分かる。

といった感じで,どうしようもない女たらしの男(ちなみに,この男は,先輩の山岳部長の妻の元彼であり,山荘に荷物を運ぶ強力夫婦の妻の不倫相手でもあり,この芝居に出ている女たちのうち,妹を除く,すべてと関係がある)の,どうしようもない痴話の顛末に過ぎない,と言えば言える。

これを,観ながら,思ったのである。これは,芝居にしなくてはならないことなのか,と。そもそも芝居とは,何なのか,と。

山岳部長夫妻のやり取り(子供ができない云々),強力夫妻と男との不倫疑惑への痴話喧嘩,どれをとっても,別に芝居でなくてもいい。テレビのホームドラマでもいい話ではないのか(こんな話ではテレビの視聴率は取れないか。だから芝居?)。

では,山荘が何かのアナロジーなのか,というと,どうもそうとは読み取れない。

劇団のモダンスイマーズのホームページには,蓬莱竜太の作品を,

人が生きていく中で避けることのできない機微、宿命、時代性を描いていく,

とあった。そうなのかもしれない。しかし,この作品からは,

「人が生きていく中で避けることのできない機微」

は感じられたが,

時代性

は感じられなかった。この作家がどのくらいの年齢かが,わからないが,夫婦のやり取り,不倫についての価値観,同棲する男女の葛藤等々からは,どうも昭和の感じがしてならなかった。そう,僕の感じた,

異和感,

は,それなのだ。時代感覚が,少し古い感じに受け取った。戦後間もなく生まれの,僕が古いと感じるということは,僕が,

いまの時代の価値観と感じているものに較べると,

乖離がある,ということなのだ。それは,あくまで主観だ。しかし,その価値観の乖離は,この芝居の根底を揺るがす。

女との痴話喧嘩で死なせた男が実家にいる,

ということが,別にどうということでもない,と受け止めたら,最後妹の暴露も,別に衝撃でもない。周囲の友人たちの「(何かかから)逃げている」という忠告も,別にどうということもない。

つまり,批判に値する価値観が崩壊してしまっているなら,女の死を悲しもうが,悲しむまいが,そもそもどうでもいい。どこで,寝泊りしようと,逃避しようと,それがどうしたというんだ,ということである。

そう,この芝居の結構自体が成り立たない。

作者が若いのだとすると,少々古風だ。そして,古風だということに無自覚だ。それは,致命的だ。時代と渡り合っているつもりで,ひとり相撲に終わっているかもしれないことに,気づけないからだ。

僕は,ライブであることの意味は,

そのとき,その場での一回性の中でしか表現できない何かがある,

からだと思う。その意味では,観ている人が,男のことを,

あの女たらしはしょうがねえな,

と感じたのだとしたら,それは時代と渡りあっていない。結局時代の古ぼけた,自分だって口ではそう言っているが,平気で不倫もし,自分の都合しか押し付けていないのに,価値観としては,不倫はだめ,といっているいまの多くの生き方,有言不実行の在り方に迎合しているだけだ。

お前は,こいつを批判するが,そんなことを言えた義理か,

と,観客のひとりひとりの,その生き方そのものを,その場で,木端微塵とは言わないまでも,揺らぎ,不安にさせなくては,時代と格闘しているとは言えないのではないか。

芝居は何のためにあるのか。テレビでも,映画でもなく,生の,ライブであることにこだわるのは,何があるせいなのか,その答は,この芝居からは,少なくとも見えてこなかった。

小説はと何かという問いに答えることが,毎回の作品を欠くモチーフと言った作家がいたが,戯曲もまた,

芝居とは何かという問いに答えること,

でなくてはならないのではないか。





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 06:00| Comment(0) | 劇評 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください