地金


昨年,ある芝居を観ていて,

ああ,この人たちは,きちんと訓練ができている,

と,感じたことがあった。それを,筋がいいというか,正統な,あるいは王道のしっかりした訓練を受けている,という感じであった。別に僻目で言うのではないが,歌手やタレント上がりに見受ける,何とも締りのない台詞回しや,口跡の悪さ,姿形というか,立ち居振る舞いのめりはりのなさとは違って,指の先まで,きちんと神経が行き届いている,という印象である。それを,筋目正しいという表現をするのがいいかどうかわからないが,正統派だと感じたのである。

ということを,あるとき,ふいに思い出した。

自分は,そういう折り目正しい教育もキャリアも経ていないので,というか,いつだったかある資格の再々試験の時,面接官が,あなたは本当に資格を取る気があるのか(とは,資格の主張がわかっていてそれを理解しょうとしているのかという意味),と叱責されたように,まともに受け止めないというか,我流に転換してしまう癖がある,というおのれに目が向いた次第である。

あるいは,折り目正しい行儀のよさへの憧れかもしれない。必ずしも,そういう人が,優れた役者になるとは限らない。名をなすとはきまってはいない。しかし,由緒正しい演技は,脇でいても光る。どこぞのジャニーズ系の主役を食うくらいの存在感はある。そういうのに対する憧れのようなものが,僕の中にある。

といって,

異端

と,胸を張るほどの気概はない。異端については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163510.html

で書いた。自分流儀にしてしまわないと,居心地が悪いというだけなのかもしれない。

地金

という言葉が,そのとき浮かんだ。付け焼刃では,きちんとしたものには仕上がらない。

地金が出る
とか
地金がさびる

という。地金の良し悪しが,最後に出る。その地金である。別に由緒とか血筋とか血統とかを,この場合言っているのではない。由緒正しい連中が,幕末も,戦前も,戦中も,戦後のいまも,ろくなことをしていないことは,事実が証明している。結局,ひと,である。その人次第である。

地金というと,

めっきの下地や,加工の材料となる金属。じきん。
生まれつきの性質。本性。主として悪い意味で使う。

とあるが,後者のことを言おうとしているのではない。金属の用語としての「地金」には,

細工物の材料にする金属。
めっきの土台の金属。
貨幣などの材料に溶かして使う金属材料。金・銀などをいう。
ふだんは表れない,生まれつきの性質。本性。

「地金を出す」というとき,メッキの土台のことを言っている。どんなに付け焼刃をしても,地が鈍刀なら,意味はない。

日本刀だと,

日本刀の材料となる玉鋼は日本独自の「たたら吹き」で造られる。これを熱して鎚で叩き,薄い扁平な板をつくる。これを水に入れて急冷して,余分な炭素が入っている部分を剥落とす。これを「水減し」または「水圧し(みずへし)」という。ここまでがへし作業と呼ばれる地金づくりである。

という作業を経て,初めて地金になる。この後も,何度も熱しては,叩き延ばし,折り重ねては,叩き,を繰り返す。最終的には,

含有炭素量が異なる心金(しんがね),棟金(むねがね),刃金(はのかね),側金(がわがね)の4種類の鋼に作り分けられ,棟金,心金,刃金の3層を鍛接して厚さ20mm,幅40mm,長さ90mm程の材料が4個取れるくらいに打ち伸ばして4つに切り離す。これは「芯金」と呼ばれる。側金も加熱され長さが芯金の倍になるくらいに叩き伸ばされ中央から切り離されて,芯金と同じ長さの側金が2本作られる。さらに,側金,芯金,側金の順で重ねられ,鍛接されて,厚さ15mm,幅30mm,長さ500-600mm程度に打ち伸ばされる。「てこ」が切り離されて,刀の握り部分になる「茎(なかご)」が沸かされ鍛接される。

ようやく,刀の形になっていく。しかし,元は,地金である。ここのつくり込みが不十分なら,その上の汗水たらした作業はすべて消える。

それがない自分を嘆いているのではない。ひとはひとのもつ遺伝子の可能性以上にはなれない。とすると,ひとつことをコツコツと叩き上げていくタイプではないというだけのことだ。

「地」の,「也」は,

うすいからだののびた蠍を描いた象形文字,

で,「土+也」で,平らに伸びた土地を示す,という。まさに,土壌である。因みに,「土」も,象形文字で,

土を盛った姿を描いたもの,

という。古代人は,土に万物を生み出す充実した力があることを祀った。このことから,「土」は,充実したという意味を含む。という。また「土」の字は,「社」の原字であり,土地の神や氏神の意となっていった,という。

思えば,自分のからだは,「土」である。メタファーというより,そのものズバリ,そうである。脳もまた,肉体である。リソースそのものである。そう思えば,それを耕す以外に,実りはない。あいにく,人は,おのれの「地」以外は耕さない。まだ未開の原野が,一杯残っている(はずである)。

耕し方も,結局自己流でしかない。いやいや,自己流以外にはない。たまには,隣の芝が青く見えたりもするものである。






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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