2015年02月07日

変える


小熊栄二『社会を変えるには』を読む。

新書500ページを超える,新書としては,大作である。しかし,読むのに難渋するところはなく,改めて,世界の,その中の日本の,そしてその中のわれわれのポジションを,ちょうどグーグルの地図を,地球規模から,拡大して,ピンポイントで,いま,ここの自分に辿り着くような,そんな社会運動の地図の役割を果たしている。

ノウハウについも若干触れてはある。著者自身が,いくつかの運動に関わり,デモにも参加した体験からの方法論だが,むしろそこではなく,改めて,「社会を変えるとはどういうことか」を,民主主義の原点,社会,政治思想の歴史を辿り直しながら,現時点を再確認して見せているところにこそ,見るべきものがある。あくまで,著者の「現状認識」の拠ってきたる背景と見ていい。

だから,著者は,あとがきで,こう書く。

「そこで読者にお願いしたいのは,この本を『教科書』にしないでほしい,ということです。私は権威になって,説経する気はありません。自分の書いたことが正しくてほかはまちがっているとか,西洋の思想は立派で日本はだめだ,などということを主張する気はありませんし,その逆もありません。『説教』の材料を『最新のもの』に変えているだけでは,『説教と実感』の対立という構造を変えることはできません。
ましてや,あなたの説教はすばらしい,どうぞ正しい答えを教えてください,私たちは何も考えずにあなたに従います,等々という姿勢をとられたら,この本で書いたことが何もつたわらなかったことになります。」

新しい正解を待っているだけでは何も始まらない。

「そのために,自国の歴史や他国の思想から,違った発想のしかたを知り,それによって従来の自分たちの発想の狭さを知る。その後,従来の発想をどう変えるか,どう維持するかは,あらためて考える。そのたるめに,歴史や他国のこと,社会科学の視点などが,必要になるのです。本書で私は,そういう視点を提供することを考えました」

と。しかし,それでは,今までの,著者の言う,

「政府だ,市場だ,NPOだ,と『正解』の材料をつぎつぎとかえたり」したのとどう違うのか,そうではないのではないか。もうそういう流れは,大なり小なりわかっている,いま必要なのは,著者自身が,今どうすべきかを,主張する思想なのではないのか。この本が実践論のノウハウを語る本ならいざ知らず,ここまででは,あくまで序論にすぎないのではないか。

思想の,社会運動の布置は見えた,

として,本論は,その現状認識の先を,自分の言葉と思想で,どう考えるか,にあるのではないか。その意味で,

思想史はあるが思想がない,

という気がしてならない。哲学概論はあるがおのれの哲学がない,という従来とどこが違うのだろう。

著者は,ここまで材料を提供したのだから,後は自分で考えろ,実践しろ,と言う。一体いままでとどこが違うのか,ただ,俯瞰し,整理して見せただけではないのか,それもほとんど西欧の思想を。たとえば,

「本書で紹介した視点,たとえば,『ポスト工業化』や『再帰性の増大』にしても,社会を見るための視点のひとつです。」

というが,それ自体が,著者の言う,

「政府や帝国大学卒業生が,西洋の文物をよくわからないまま輸入して近代化を進めた」

過去とどこが違うのか。「よく理解している」分違うというのか。それなら,自分の言葉で語るべきだ。(ヴィトゲンシュタインの言うように,)

持っている言葉によって見える世界が違う,

のであれば,輸入の言葉では,輸入の風景しか見えない。最低限,それを咀嚼して,自分の言葉にしなければ,自分の現実から生まれた言葉ではないのではないのか。

僕は,別に正解を求めて,あるいは,実践の後ろ盾を得たくて,本を読むのではない,自分の言葉で,自分の思想を語り,それを実践する思想に出会いたいのである。そこで初めて,対話がある。

上から目線ではないと言いつつ,自分の思想は語っていないのである。現状認識などは,百人いれば,百語るだろう。そうではない,自分の現状認識に基づいて,社会を変える思想を提供しなくては,結局,今までの横書きを縦書きに買えただけの著作とどう違うのか。

たとえば,著者は言う。

「運動とは,広い意味での,人間の表現行為です。仕事も,政治も,芸術も,言論も,言論も,研究も,家事も,恋愛も,人間の表現行為であり,社会を作る行為です。…。
『デモをやって何が変るのか』という問いに,「デモができる社会が作れる」と答えた人がいましたが,それはある意味で至言です。『対話して何が変るのか』といえば,対話ができる社会,対話ができる関係が作れます。『参加して何が変るのか』といえば,参加できる社会,参加できる自分が生まれます。」

と。正論だと思う。しかし,「デモをテロ」といい,対話をした後も,「見解の相異」と嘯く為政者の政権下では,まったくそれは牧歌的な手法にしか見えない。

すでに,日本の現状,民主主義国家の体を装いつつ,実は,政府も議会も,政治家も,国をコントロールできていないということについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/411281361.html

で触れた。それを背景に考えるとき,著者の実践論も,少し甘さを感じる。空(航空)も,米軍基地も,原子力発電も,さらに電波すらも,日米合同委員会マターだと言われる。これは,独立国の形態なのか,そういう現状認識から見ると,結局教養人のいう,正攻法でしかない。しかし,でも,ここにしか突破口がない,としいうなら,それなりの現実認識に基づく思想を立てないと,いつまでも,他国の思想を紹介して,現状認識をするだけでは,突破口はない。

ただ,個人的には,関係の物象化を,

人間と人間の関係が,物と物の関係として表れてくる,

を復習し,吉本隆明の,

関係の絶対性

の意味を別の角度で考えるきっかけにはなった。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/397281789.html

で触れたが,著者はこう書く,

「これを応用すると,『人間の能力』も,関係が物象化したものです。たとえば,家族がそろってニュース番組や芸術番組を見ながら夕食をとり,時事問題や芸術について会話があるような家庭で育った子どもは,お笑い番組をみながら夕食をとる過程で育った子どもより,自然と『能力』が高くなります。意識的な教育投資をしたかということではなく,長いあいだの過程の人間関係という目に見えないものが蓄積されて,『能力』となってこの世に現れる…。」

因みに著者は,これを,(ピエール・ブルデューの)「文化資本」という概念で見ている(著者自身による,この光景の帰納としてこの言葉があるのではなく,この(ピエール・ブルデューの)言葉の演繹としてこの風景がある)。この言葉で世の中を見ている。すでにこれ自体が,(著者自身の)関係の絶対性を顕現していることに,著者は無自覚である。

話を元へ戻す。さらに,こう言っている。

「市場経済の中ではみんな平等の人間だと言われますが,実際にこの世に現れるのは,『資本家』と『労働者』という,生産関係の両端でしかありません。『文化資本』のもとになる親の資産や学歴だって,もとはといえば,生産関係のなかで得られたものです。」

「こういう考え方によれば,『個人』とか『自由意志』というものは成りたちません。『個人』といっても,関係が物象化しているものだ。」

ということになる。対立は,個人対個人のそれではないのだ,ということになる。この物象化を,絶対性と見た,ということが,ようやく腑に落ちた,という個人的な感想だが。

参考文献;
小熊栄二『社会を変えるには』(講談社現代新書)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 04:49| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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