2015年02月08日

妲妃のお百


昨年末のことになるが,駒塚由衣さんのアトリエ公演「妲妃のお百」(作:藤浦敦)に伺ってきた。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=644495825659454&set=a.114469621995413.18531.100002971278060&type=1&theater

駒塚の語りについては,先日,「郭夜公隅田白波(ほととぎすすみだのしらなみ)」に伺ったことを,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/409301615.html

で書いたが,実は,「妲妃のお百」の方が,先。前後したが,やっと,伺うことができた。

語りについては,前回書いたのが,その日いらっした作者が,

「殺しの場面がよくなった」

と言われるように,練れてきているらしい。今回は,この作品の視点に興味がわいていた。「妲妃のお百」に焦点を当てながら,秋田小僧(重吉)の殺しの場面に焦点が当たっている。

話は,『妲己のお百』とあだ名されるとんでもない悪女が美濃屋の小さんとして芸者として張っている。元芸者で目を患って門付けしている峰吉とおよしを見かねて,お百が引き取る。目の療治に生かせている間に,小さんは一芝居打っておよしを吉原に二百両で売り飛ばしてしまった。いったん美濃屋に戻った峰吉は,およしに会いたいと言うのをごまかし,果ては2階へ押し込めたものの,手を焼き,自分の旦那の彦五郎(盗人一味のお頭)の子分,(秋田小僧の)重吉が立ち寄ったのを機に,殺しを依頼し,それを実行した重吉は,峰吉の亡霊に取り付かれて…

という流れ。因みに,妲己(だっき)とは,

殷王朝末期の紂王の妃。帝辛に寵愛され,悪女の代名詞的存在として扱われる。ウィキペディアには,

帝辛(紂王)に寵愛され,妲己のいうことなら,帝辛は何でも聞いたという。師涓に新淫の声・北鄙の舞・靡靡の楽を作らせた。賦税を厚くして鹿台に銭をたくわえ,鉅橋に粟を満たし,狗馬・奇物を収めて宮室いっぱいにした。沙丘の苑台を拡張して,野獣蜚鳥をその中に置いた。鬼神をあなどり,沙丘に大勢の者を集めて楽しみ戯れた。酒をそそいで池とし,肉を掛けて林とし(酒池肉林),男女を裸にして互いに追いかけさせ,長夜の飲をなした。その後,妲己は周によって攻められた際に武王により殺されたとされる。

とあり,妲己は,

己が姓,妲は字であるとしている。この頃女性は字を先に,姓を後に書く風習があった,

のだそうだ。「妲己のお百」は,

京都祇園の遊女の出で,出羽久保田藩用人の那河忠左衛門の内妻となる。久保田藩のお家騒動で那河が宝暦7年(1757)斬罪になると,録物に毒婦として登場。のち中国殷代の悪女妲妃の名をとった講談「妲妃のお百」に脚色され,さらに歌舞伎化された。

とあり,それを前作同様,談志のために落語として仕立てたもののである。談志のそれは,ユーチューブで見る(聴く)ことができる。

だからこそ,この噺そのものの結構というか構成に興味がある。あくまで素人の講釈であるが。。。

談志の噺に較べると,およしを売り飛ばす経緯がとばされている(お百は金に困っていた)ので,どの時点で峰吉を騙し,およしを売り飛ばそうとしたのかが,ぼかされている。だから,単なる親切心で,声を掛けたのか,と見間ち違う。確かに,最初に悪女という説明はあったが,語りだけの場合,身ぶり,目くばせ,目の表情が視覚化されないので,錯覚しそうになる。この辺りは意図的なのかもしれない。

もとの歌舞伎や講談のこしらえをベースにしているにしろ,話が,お百と峰吉とのからみ,重吉と峰吉のからみに分断されていて,後者だけ取れば,怪談物,前者だけ取れば世話物というか人情話である。

歌舞伎や講談は欲張って両方を盛り込みたいところかもしれないが,話を別にする,という手もある。

仮に,お百が悪女だとしても,峰吉が引かれた先の旦那の遺族が借金催促に来なければ,およしを売らなかったかもしれない,というところに焦点を当てれば,まったく違った話になる。その辺りの葛藤と,二百両という高値に地金が出た,とすれば,話は少し心理劇になる。

悪女だから,初めから。(落語がそうであるように)およしに目を付けての猿芝居,というふうにしてしまうのも,一つだが,元芸者の成れの果てに,気まぐれに同情して,しかしおよしをみているうちに,これはいい値がつくと踏んで,気が変わっていく,というのもある。その辺りの葛藤なしの,完全なる極悪非道に徹するのもある。

話の艶からいうと,落語とは違って,女優が語りかつ演じるというところに特色を出すなら,お百の内面の葛藤を顕在化させても面白いな,と感じた。冒頭で,記憶に間違いがなければ,人との出会いで,その運命が変わっていく,という語りがあった。それは,何も峰吉にとってとばかりとは限らない。お百にしたところが,ここで峰吉に出会い,なまじ情けをかけたばかりに,人殺しへと一瀉千里,ということでもある。

あくまで,お百をただの極悪人というパターンにおさめないならば,という前提だが。

重吉が,峰吉の幽霊に怯え,おののくのを見ると,本来は,それほどの悪党ではなく,せいぜい小悪党といった感じなのではないか。殺しを引き受けるのも,結構逡巡している。さらに,殺すときも,訳を話して,因果を含めている。
そういう意味では,これも,たまたまお百のところへ立ち寄ったのが運の尽きなのかもしれない。そういう偶然の出会いが,因果の糸を縒り合せていく,というところに焦点をあてるなら,ただの極悪人としてしまったのでは,話は単純な因果応報になってしまう。

小悪党なりに,親分の姐御の言うことだし,駄賃の金にも目がくらむ,たかが盲目の老婆だし,とお畳みかけるように追い詰め,追い込まれていき,結果として殺しの実行という損な役回りを引き受け,挙句に,峰吉の幽霊の恨みを一身に背負わされて,怨み殺される,という結末へ,心理の綾,感情の綾,絵も枠の綾が,織りなして,おのれの人生を締め上げていく,というのも,それなりの面白さがある。

聴きながら感じていたのは,歌舞伎や講談,落語を離れて,独自の語り物に編集してもいいのではないか,ということだ。語り独自の世界観があっていい。落語と違って(制約なく,女優でもある語り手が)語り,演じ,演じ分け,声色を使い分けていけるのを十分に生かし切れれば,別の世界が拓けていく気がしてならない。

とすれば,それに合わせて,歌舞伎や講談のつくる世界とは,別の演出があっていいはずである。思い切ったストーリーの編集である。

落語の編集については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/401491617.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163512.html

で触れた。落語家が,演出家でもあるのなら,語りは,もっと大胆な演出をしてもかまわないのではないか。





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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posted by Toshi at 05:42| Comment(0) | 語り | 更新情報をチェックする
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