2015年02月09日

二之席


知り合いと,上野鈴本の正月二之席,夜の部に伺ってきた。

http://www.rakugo.or.jp/2015-1naka-yoru.html

寄席の件は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410444720.html

で触れた。

今回は,先だっての昼席と違い,4時過ぎから席亭前に行列ができ,たぶん,ほぼ満席に近かったのではないか,と思う。そうなると,場の雰囲気も,笑いの盛り上がりも,会場全体がどよめくようで,それが,笑いを更に盛り上げてくれる感じであった。

今回は,

柳家さん坊,
柳家さん弥,
(曲芸),
柳家喬志郎,
柳家喜多八,
(林家二楽・紙切り),
春風亭百栄,
桃月亭白酒,
(奇術),
入船亭扇遊,
(漫才),
柳家喬太郎,

と落語の間に,例によって,曲芸,紙切り,漫才がはさまっているのだが,実は,

つる

熊の皮

新作

紙切り

短命

桃太郎

壺算
(中入り)
奇術

夢の酒

漫才

新作

というふうに,(記憶に間違いがなければ,多分)流れていて,ネタは,当日になって決めるというそうだから,その辺りの段取りがあるのかどうかはわからないが,古典だけが続くと,意外にモノトーンになっていく印象がある。

古典は,江戸時代や明治の人にとっては,現代,というか,「いま」「ここ」での,いつでも出会えそうな人に違いない。しかしいまの我々には,遠い世界のこととして,距離を置いて笑いにしている。笑う側に,身につまされるものはない。しかし,新作は,いまと地続きになっている。その意味では,漫才のネタと似ている。その笑いは,瞬時に,おのれに置き換えて,おのれの体験と照らし合わせて,くすぐられ,腹をよじって笑う。

そのとき,笑いは他人事ではない。

とりの,柳家喬太郎の新作というか,枕の延長というか,いまの時代,いまの生活空間が,そこにある。ほとんど笑いが途切れず,うねったが,それは,古典を笑う笑いとは,ちょっと違った気がする。その笑いは,おのれを笑い,おのれの過去を笑い,おのれのいまを笑う。おのれが間抜けを笑うとき,その相手も自分も,いまを生きている。明日,その人と出会うかもしれない,おかしさなのである。

その笑いは,自分に,あるいは,自分の周囲に,いま起きている笑い,明日起きるかもしれない笑いであり,笑いながら,具体的なイメージの思い浮かぶ笑いなのである。

その同時代感が,漫才や漫談のそれと同じだということだ。

古典を聴く時は,滑稽にしろ,人情にしろ,メタ・ポジションから見ての,それである。自分はその世界から,身を引いての,それである。皮肉,諧謔,風刺は,時代性がいる。いま,ここで起こっていること,起こりそうなことを,同じ目線で,同じ地続きで,聞いているからこそ,面白い。身につまされる。

(古典で)ちょっと身を引いて,笑っておいて,それから,(新作,漫才で)我が身に帰り,またちょっと高みから,(古典の)ばかげた振る舞いに笑い転げ,でもそれが続くと,少し飽きる。で,また,(新作の)我が身に引き比べて身につまされる。こんな凸凹というか,波があって,寄席一席が成り立っているのかもしれない。

その意味では,確かに,古典も楽しいし,江戸っ子のべらんめえも心地よいが,そればかりだと,取り残されていく気がする。我が身に立ち返る,おのれのここに立ちなおす,というのも,悪くない。

こんなことを考えて,笑い疲れて,店仕舞いを始めたアメ横を通り抜けた。もう正月気分は,二之席の寄席にしかなかった。

posted by Toshi at 05:41| Comment(0) | 寄席 | 更新情報をチェックする
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