2015年02月10日
問いかけ
問いのことである。人は,問われたことについて,答えを自分の中に探し出そうとする,という。その意味で,質問は意味があるが,つくづく思ったのだが,問いは,聴き手側から出てくるのではない,ということだ。
質問については,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06432.htm
で,散々,原則を考えたが,やはりわかっていなかったのだと,思い知る。質問を,共感性ということに即して考えるなら,問いは,話し手自身の中から吹き出てくる。
共感性については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/410724005.html
に書いたが,それにあわせて,話し手のペース,つまり思考スタイルに即することについては,マイペースと呼び,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/412037148.html
に書いた。ここでも触れたことを,もう少し踏み込むなら,話し手の沈黙を,沈黙として意識したら,それは話し手の沈黙ではなく,聴き手の(感じ取っている)沈黙,外から見ている沈黙である。その沈黙の受け取り方で,聴き手側のポジションが見えてくる。寄り添うとか,共感性などという言葉は,その瞬間意味をなさない。話し手のペース,息遣いそのものに即している,あるいはそばにいるなら,話し手の黙っている時間は,
話し手と一緒に答を自分の中に探している時間であり,
それを言語化する,どういう言葉にしたら,きちんと表現できるかを考えている時間であり,
何だろうと考えている時間であり,
等々,沈黙ではないのである。黙っている時間は,
黙っていても
考えているのだ
俺が物言わぬからといって
壁と間違えるな(壺井繁治)
黙っている本人にとって,沈黙ではない。言葉の20,30倍のスピードで意識が流れている,そのさ中にいるのだ。
吉本隆明の言う,
沈黙とは,内心の言葉を主体とし,自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し,問いかけることがまず根底にあるんです。
という通りなのだ。沈黙を沈黙と感じたら,聴き手としての自分は,相手をメタ・ポジションから見ていないまでも,距離を置いて眺めている証拠である。そばに立っているなら,あるいは,共感しているなら,その沈黙は,待つ時間ではなく,一緒に考えている時間である。当然,沈黙を感じるなどということはない。待つとか待たないとか,考えている本人が感じるはずはないのだ。
僕は,沈黙への感じ方が,自分が話し手のどこにいるのか,その距離を測る目安だと思っている。それは,田中ひな子さんのことは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163109.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163304.html
等々,何回か触れたが,それが,話し手の自己対話の中に紛れ込むことだとすると,沈黙は喧しい自己対話の最中のはずなのだ。
相手近くに,共感して立っているかどうかの目安は,第一には,沈黙への距離だと思うが,もう一つは,問い,質問だと思う。
質問は,聴き手の中から生まれてくるのではなく,話し手の話の中から,問いが生まれてくる,ということに,いまさらだが,気づいた。問いは,話し手の自己対話の中から,吹き出しのように,生まれてくる。それが,聴き手側から出てきたとすると,
それは何ですか,
そのことをどう思いますか,
という類の質問になる,しかし,話し手自身から出てくると,
そのことは,何なんだろうね,
そのことをどう思ったらいいんだろう,
となる。問いは,自問なのだとすれば,質問ではない。
「質」は,
「斤」+「斤」+「貝」
と分解できる。「斤」は,
重さを計る錘に用いた斧,
で,「斤」ふたつとは,
重さが等しいことを意味する。「貝」は,
割れ目のある子安貝,または二枚貝,
を示す。古代には貝を交易の貨幣にもちいたので,財貨を意味する。で,「質」は,
Aの財貨と匹敵するだけの中身の詰まったBの財貨
を表す。名目に匹敵する中味がつまっていることから,実質,抵当の意味になる。
「問」は,前にも書いたが,
「門」+「口」
で,「門」は,
二枚の扉を閉じて中を隠す姿を描く象形文字,
で,隠してわからない意やわからないところを知るために出入りする入口の意。「問」は,
分からないことを,口で探り出す,
という意味になる。その意味では,「問い質す」というときの,「質す」は,かなり意味が重たい。その中身の真価の是非,有無を尋ねている。
だから,質問というより,疑問,あるいは,問いかけ,ひょっとすると否定疑問なのかもしれない。自分に向かって,問い質す奴はあまりいない。
それって,どういう意味だろう。
それを考えるには,どうしたらいいのだろう。
なぜそれが出来ないと思うのだろう。
それって,妙じゃないか。
自分への問いかけは,おのれ自身の未知の扉をおとない,それを開けて,解き明かすような,おのずと湧き出てくるもののはずだ。そうでない問いは,話し手ではなく,聴き手の中から出ている。そういう問いをつかみたいと思っている。それも,相手に寄り添えているかどうかの目安のはずである。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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