2015年02月14日

狂人なおもて往生をとぐ


作・清水邦夫,演出・熊林弘高『狂人なおもて往生をとぐ~昔、僕達は愛した~』

http://www.geigeki.jp/performance/theater069/

を観た。

狂人なおもて往生をとぐ

は,もちろん,親鸞の,

善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや

のもじりである。だから,こうなる。

狂人なおもて往生をとぐいわんや常人をや

と。

清水邦夫の初期の作品である。69年,その前年に,『真情あふるる軽薄さ』が上演されている。そういう時代背景である。75年には,『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』。78年に『火のようにさみしい姉がいて』,84年に『タンゴ・冬の終りに』。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/399934797.html

でも触れたが,『真情あふるる軽薄さ』や『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』『タンゴ・冬の終りに』を,再演で(『タンゴ・冬の終りに』は初演と再演)観たとき,脚本が時代に追い抜かれたというか,置き去りにされたという感じを懐いた。その当時の情熱と熱意を,いまの時代は失っているから,その姿勢が浮いてみえた。しかし,それは,作家が時代と格闘していたという証だ。作家の危機感を,いま時代が,いま社会が見失ってしまった証だと思うからだ。だが,

『狂人なおもて往生をとぐ』

は,45年を経た,いまも輝いている。それは,作家が時代と格闘したことが,そのままいまに(続いて)あるからだ。それは,時代を先取りしたという言い方をしてもいい。家族というテーマだからではない。家族というテーマで,時代と格闘したからだ,とつくづく思う。家族が社会の縮図であり,社会での関係性を反映しているからに違いない。これは,作家の先見性を示している。いま,それが色あせていないということは,作家清水邦夫が,そのとき,その時代と,いかに真剣に格闘していたかの,証明でもある。

主人公の長男,出(いずる)は狂っていて,我が家を「淫売宿」と思っている。父を毎日通う客,母と姉を娼婦と思っている。それに付き合う家族は,その妄想と対比するように,ときどき「家族ごっこ」として,父であり,母であり,姉であり,長男であり,次男であり,という現実を,「ごっこ」で対抗して演じているふりをする。そうすることで,「淫売宿」も「家族」もゲームとなり,出の妄想は相対化される。

それを観ながら,家族療法を思い描いた。家族をシステムとして見,患者を,

IP(Identified Patient 患者と見なされた人)

と呼ぶ。まさに,出(いずる)は,狂人となることで,この家族というシステムを維持しようとしている。「淫売宿」という妄想に付き合うのも,「家族」をゲームにするのも,言ってみれば,この問題(出の狂気)を解決するために編み出した(家族による)解決策に過ぎない。「一家心中(があった)」とするのも,またゲーム(架空の因果を創り出した解決策)である。だから,家族療法による考え方では,

(システムズアプローチによる)家族療法では,家族を個々の成員が互いに影響を与えあうひとつのシステムとして考える。そのため家族成員に生じた問題は,単一の原因に起因するものではなく,互いに影響を与え合う中で,問題を維持する原因と結果の悪循環を描いている,

とみなす。まさに,出(いずる)の狂気に対応しようと,次々と編み出されるゲームは,家族というシステムそのものを軋ませ,さらなるゲームを考えなくては,維持できなくなる。

それは,狂気と正気の区別をあいまいにしていく。どちらが狂っていると言えるのだろう,そもそも正気と狂気の境界などあいまいなのではないか。

家族システムを維持するために,狂っているのが出(いずる)なのか,出(いずる)に合わせてゲームをしている家族の一員それぞれ,父も母も姉もなのかは,わからない。役割を変じ,役割を変えても,別のゲームが始まり,家族システムを維持することにしかならない。次男のフィアンセは,それに巻き込まれて,事実と妄想の区別がつかなくなる。それは,家族システムに入るための試金石でもあるかのようである。そのゲームに加わる限り,家族になれる。しかし,その妄想について行かず,家族でなくなれば(婚約を解消すれば),そのゲームから「やめた」といって離脱ができる(かもしれない)。ラスト,姉と弟出(いずる)が,姉弟から恋人(?)に役割を変えた(恋人ゲームを始めた)としても,「ごっこ」は所詮まねごとに過ぎない。それに置いてきぼりされまいと追いかけた末弟も含めた三人が,仮に家を出たとしても、家族としての別のゲームを続けるに過ぎない(のかもしれない)。現に,父と母は,強固なルーチンとしての日常を,日々の習慣を,また再び始めようとしている。

ところで,本来,往生とは,

現世を去って仏の浄土に生まれること,特に,極楽浄土に往って生まれ変わること,

という意味である。しかし,往生には,

どうにもしようがなく、困り果てること,

という意味がある。この起源は,閉口するの意の,

厭状(おうじょう)

脅かして無理やり書かせた証文,

とされる説もある。ここでは,「成仏」ではなく,「立ち往生」している,

立ったまま身動きの取れない,

という意味をも含めている気がしないでもない。そう,だから,

狂人なおもて往生をとぐいわんや常人をや

である。

この作品の危機感は,新学習指導要領に「道徳」が入った時代の危機感を反映している。しかしいまや,

教育勅語

が素晴らしいと公言している文部大臣のいる時代である。危機は格段に大きくなっているはずなのに,世の中はのどかで,作家たちも呆けているような作品しか書かない。

劇中,「タコ八の歌」(「タコ八」は,「冒険ダン吉」とともに当時の漫画の主人公)という歌が,つぶやかれる。

きのう召された
タコ八が
弾丸(たま)に撃たれて名誉の戦死
タコの遺骨はいつ還る?
骨が無いから帰れない
タコのかあちゃん悲しかろ

これは,戦時中(昭和17年頃),その少し前(昭和15年頃)に流行った高峰三枝子の「湖畔の宿」の替え歌が,ひそかに歌われていた,ものという。いまは,この第一節しか残っていない,らしい。

この危機は,2015年の現在,1969年の比ではない。

作中繰り返された,

事実は歪めても
真実は歪めない,

が心に残る。





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:21| Comment(0) | 劇評 | 更新情報をチェックする
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