2015年02月20日
作家
僕は,自分の中では,作家というのは,
小説家,
だと思っていて,文学者というと,純文学系,日本文学全集に名を残す作家のことと,思い込んでいた。
作家というのは,辞書では,
詩歌,小説,絵画など,芸術品の制作者,特に小説家。
ウィキペディアには,
「作家とは、芸術や趣味の分野で作品を創作する者のうち作品創作を職業とする者または職業としていない者でも専門家として認められた者をいう。
芸術家に含まれる者の多くはこの意味での作家であるが、職種・肩書きとして、○○作家と呼ぶかどうかは、すでに固有の職業名称が確立しているか否かによる。すなわち伝統的芸術分野では詩人・画家・作曲家・監督などの呼称が確立しているため○○作家とは呼ばないが、新しい芸術分野や趣味の分野では、○○作家、○○創作家、○○クリエイターという用い方がされる。ただし伝統的芸術分野においても、○○作家という語を用いる場合がある。
ただ単に『作家』と言った場合、著作家、とくに小説家を指す場合が多い。だが、『作家』という職業は様々に枠が広いため、そう呼称されるのを嫌うものもいる。逆に、小説は書いていないが単に作家と称するケースも存在する。」
とあり,作家=小説家というのは,あるいは,先入観なのかもしれない。
「作家」は,
「作(つくる)+家」
で,家をおさめる意,のようだ。しかし,どうして,それが小説家や制作者を指すようになったのだろう。その語源がわからない。
「作」の字は,
「乍」は,
刀で素材に切れ目をいれるさま
を描いた象形文字。急激な動作であることから,「たちまちに」の意の副詞に専用に使われるようになったため,
「人+乍」の「作」
の字で,人為を加える,動作をする,の意を表すようになった,とされている。それで思い出したが,「創造」の「創」の字の,「刂」は,
刀
を意味し,刃物で,素材に切れ目を入れること。素材に切れ目を入れるのは,工作の最初の段階でもあることから,はじめる,の意にも転じた,という。
記憶で書くので,間違っているかもしれないが,確か,鋳造するとき,砂で型をとるが,冷めたとき,刀で傷をつけた,という言われを,どこかで聞いたことがある。もっとも,もっともらしい説には,眉に唾をつけた方がいいかもしれない。
「家」は,
「宀(やね)+豕(ぶた)」
で,たいせつな家畜に屋根をかぶせたさま,である。イエといういみのほかに,専門の学問技術の流派またはそれに属する者という意味がある。
作家を,イエをつくる,というから意味が分からないか,例えば,一家を成すという言葉がある。だから,
イエをナス,
あるいは,
イエをオコス,
と呼ぶと,何となく意味が見えてくる気がする。たしか,かつて中上健次が,文学者のことを,
作家としての店を張る
という言い方をしている。文筆というもので,店を張っている,悪い言い方をすると,
売文
ということになる。おのれの筆先ひとつで,文章で,店を張っている,ということになろうか。その意味では,小説家も,劇作家も,脚本家も,エッセイストも,すべてライターは,作家ということになる。
文筆家
という概念が,ひとくくりするには,妥当な言い方なのかもしれない。
ベイトソンが,
情報とは差異である,
と言っていた。そのことは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/389809186.html
触れたが,作家は,筆先で,世界を見せるのだと思う。新たなパースペクティブと言い換えてもいい。それが,小説家や脚本家のように,フィクションの場合もあろうが,エッセイストやノンフィクションライターなら,この世界の,別の見え方を示すことで,新たな視界を開いて見せるのだろう。
その違いは,わずかなのだと思う。わずかな切れ目,差異に目を止め,そこをクローズアップして見せる見せ方,写真家が,同じ世界に異世界を見せるのと同じように,視角と視点で炙り出す,その手際が,腕なのだろう。その意味では,画家を含めた,その他の芸術家にも,同じことが言えるのだろう。
そのことから,得られるのは,
新しいパースペクティブなのか,
新しい(こころの)風景なのか,
異なる視点なのか,
いままでとは違うものの見方なのか,
新しい価値の世界なのか,
いずれにしろ。そのことで,自分の実人生の体験では得られない体験をすることになる。でなければ,その店で買いたいとは思わないだろう。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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