2015年02月23日

島原の乱


五野井隆史『島原の乱とキリシタン』を読む。

神田千里『島原の乱』(中公新書)

に,かつて強い感銘を受けた。それまでにも,個人的に,マリオ バルガス=リョサ『世界終末戦争』に触発されて,島原の乱を連想し,

鶴田倉造編『原史料で綴る天草島原の乱』,西村貞『日本初期洋画の研究』,石井進・服部英雄編『原城発掘』,助野健太郎『島原の乱』,鶴田倉造『天草島原の乱とその前後』,戸田敏夫『細川藩資料による天草・島原の乱』,煎本増夫『島原の乱』

等々を読み,さらに,村井早苗『幕藩体制とキリシタン禁制』,姉崎正治『切支丹宗門の迫害と潜伏』,海老沢有道『増補切支丹史の研究』,海老沢有道『キリシタンの弾圧と抵抗』等々も追いかけた上で出会った,神田千里『島原の乱』のもつ,複眼的な記述に強い印象を受けた記憶がある。

だから,期待も大きかったが,少し切り込みが単線に過ぎる気がしてならない。たとえば,

乱側に,松倉家の旧家臣がおり,幕府側に陣借りする形で,松倉旧家臣がいる,

乱側に,無理なりの形でキリシタンになり,加わったものがいる一方で,神仏を信ずるものにとってはキリシタンは悪夢の再来であるとして,藩側で戦ったものもいる,

唯ひとり生き残った絵描き右衛門作が,四郎にかわって指揮を取っていたという目撃談と,軟弱な裏切り者の絵師とていうギャップに,絵師に韜晦する,一筋縄ではいかない複雑な右衛門作像がある,

一旗揚げる最後の機会と幕府軍の各藩に陣借りする牢人もいれば,そのために一揆に加わった牢人もいる,

等々,と言う複雑さ一つとっても,この乱のもつ,構造の複雑さは,変り行く社会構造を背景にして,

(移封した有馬家と共に同行せず)土着した(土着というより,多くは兵農分化していなかった)旧有馬家臣,
(関ヶ原以来この地に土着ないし浪々した)旧小西家家臣,
廃絶された加藤家等々,潰れた各藩のあふれている牢人,
松倉家を致仕した旧家臣,
棄教させられたキリシタンの立ち返り,
キリシタンに無理なりさせられた農民,
戦国の習いに従って,村ごと城に逃げ込んだ一般農民,
一揆勢と藩側の勝敗の帰趨を見ながら,藩から一揆側へ,一揆側から藩側へと右顧左眄して生き残りを図る村々,

等々,という様々な要因が絡み合っていて,確かに農民一揆だが,当初各藩,幕府が,

たかが百姓一揆,

と侮るような戦力ではなかった背景だけからも,この乱のもつ複雑な構造が見えてくる。

乱の見方でも,当初から,

幕府,諸藩から,キリシタン立ち上がりの一揆として位置づけられていた,

のに対して,ガレオン船の船長として長崎に来たポルトガル人コレアは,

「彼らは領主に抵抗して起ち上がって反乱を起こした。キリスト教のために起こしたのではない。ところが殿の役人たちの目的は,彼らの暴虐を隠蔽するためまた日本の領主と皇帝(将軍)の名誉を失わないために,キリスト教のために蜂起した,と発言することにあった。」

と,書いた。彼は,宣教師援助の廉で逮捕され,乱後処刑された。ここには,宣教師側の言い訳があるかもしれないが,といって,もちろん,キリシタン信仰のために,立ち上がったというのは,少し単純化しすぎるであろう。

著者は,

「一度転んだキリシタンたちを糾合して蜂起に駆り立てることになった背景には苛酷な年貢徴収があり,…苛政が一揆発生の要因であったであろう。」

と書く。

勿論,飢饉の続く中,松倉側の重税と未進への過酷な苛政があったということは,多く上層農民層,つまり旧有馬家家臣たちにとっても,それは過酷な状況であった。

そうした絶望的な状況について,神田氏は,かつてこう書いた。

「飢饉という非常事態に際して,今や禁断の果実となったかつての信仰を回復することがこの危機を打開する,困難にして唯一の方法として考えたとしても不思議ではない。こう考えて初めて『キリシタンの葬礼』をしないことによる『「天竺」の怒り』が飢饉を招いたとする,人々の終末観を理解することができるように思われる。『天候不順・凶作・飢饉・領主の苛政や重税』を『棄教したことに対する天罰』と考え,これを『バネとしてキリシタンへの復宗運動が起こった』という鶴田倉造氏の指摘は,大きな説得力を持っていると思われる。」

そう考えると,それを悪夢と考える人もいるのである。キリシタン領主の下,キリシタンが力を持った時代の負の問題,例えば,非キリシタンの迫害,寺の焼き討ち,墓の破壊,人身売買等々が,非キリシタンにとっては,まさかの悪夢の再来なのである。当然,その反発もある。

そうした領民層の複雑な構造への目配りが少し足りないと同時に,反乱側の構想についても,

原城立籠りが当初から計画されていたものではない,

と,捕えられた渡辺小左衛門の口書だけから判断するのは,どうであろうか。著者自身も,

「領民による蜂起は一度キリシタン宗に立ち戻ることによって幕府の検使下向を促し,その際に恨み言を申し述べようとするためであった。」

とする当時の見方を述べているし,乱首謀者たちには,マニラへの移住という策をたて,そのために人を沖縄まで送り出そうとした気配もある,とされるなど,さまざまに構想があったのではないか,という気がする。

確かに,島原藩居城・島原城,唐津藩の富岡城,ともに一揆勢は,あと一歩で攻め落とし切れず,やむを得ず,原城に籠城に至ったけれども,両城攻略の目的は,そこに籠城することであったとすれば,それによって,何かを果たそうとしたのではないか,という推測も成り立つ。

一揆勢と幕府方とは,何回か矢文のやり取りをしているが,そこから読み取れるのは,

①籠城したのは,国家に背いたり,松倉に不満があるのではないこと,
②後生の救いを失わないために,信仰の容認を求めて蜂起したこと,
③現世のことについては将軍や藩主に忠誠を尽くすが,来世のことについては,天使,天草四郎の下知に従う,

という主張が共通してみられる,と神田氏はまとめ,

「『上様』への怨恨か,『地頭』即ち松倉勝家への怨恨かという幕府上使衆の問いに,『誰に対しての恨みでもない。(殺された)キリシタンの数だけ殺す』と原城内から答えた」

ものもいる,と加えている。

こう見ると,単純にキリシタンの乱とも,苛政に反発した一揆とも,一概に言えない複雑な土地柄を反映しているように見える。飢饉は,この土地だけではないし,重税も,飢饉なればこそ,どこでもありえた。それが,この地だけに,有馬の過半の農地が無人の野となるほどの一揆が起きたのか,そのための,

俯瞰の視点

虫瞰の視点

の両方がいるし,内と外,東アジア全体を見渡す視点もいる。その意味では,僕には物足りない思いが残った。

僕は,記憶で書くが,幕府がオランダを頼んで,海上から砲撃したように,一揆側にも,スペインを頼んで,キリシタンの移住を画策していたという話を読んだことがある。その両方があって初めて,島原の乱の規模の大きさがわかる気がするのだ。

参考文献;
五野井隆史『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館)
神田千里『島原の乱』(中公新書)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:14| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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