先月のことになるが,「さん生ひとり語り」に伺ってきた。
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演目は,「鼠穴」「うどん屋」「初天神」。いずれも,何度か聴いたことがある。その意味では,新鮮な噺ではない。にもかかわらず,印象深かったのは,噺には,噺家の個性が出る,ということではなく,
人柄がでる,
と言う当たり前のことに気づいたのだ。通の人にとっては,何をいまさらと言われるのかもしれないが,話の筋がわかっていることは,噺を楽しむこととは別のようなのだ。
まくら
に個性があり,人柄が出るのは当たり前だ。そうではない。噺そのものに人柄が出るというか,極端に言うと,噺が,
人柄で変る,
ということに気づいたのだ。
僕は若いころから,小三治師匠が好きなのだが,と言って,何度も聴いたわけでもない。ただ,テレビで正式のタイトルは忘れたが,アメリカ留学の顛末を語ったのをうかがって,笑い転げたときに,いっぺんで,小三治師匠のファンになった。
それは,話が面白いという理由だけではなかった気がする。そこに見た,小三治師匠の人柄を垣間見た気がして,虜になったと言っていい。
確か,吉本隆明が,
「文句なしにいい作品というのは,そこに表現されている心の動きや人間関係というのが,俺だけにしか分からない,と読者に思わせる作品です,この人の書く,こういうことは俺だけにしかわからない,と思わせたら,それは第一級の作家だと思います。」
と言っていたと思うが,これは,落語にも通じるような気がする。ただし,少し変わる。
「文句なしにいい落語というのは,そこに表現されている噺家の心の動きや人間関係というのが,俺だけにしか分からない,と聴き手に思わせる落語です,この人のよさは,俺だけにしかわからない,と思わせたら,それは第一級の噺家だと思います。」
というように。
この噺をする噺家の,この人柄を,この気質を,わかるのは,自分だけだ,
というわけである。おおく,ファンと言うのは,どのファンでも,自分だけが見つけた何かを,相手に見つけたのに違いないのではあるが。
今回,ばかげたことかもしれないが,三つの演目とも,あるいは,独演会に,この演目を選んだこと自体に,人柄が出ているのかもしれない。
おおよそ,僕は落語通ではないので,一般の人が知っている以上に,多くの演目を,多くの落語家で聴いたわけでもない。昔は,ラジオの音声だけで落語を聴いていたのだが,そこではわからない視覚情報が多く入るようになって,噺の,あるいは落語の奥行は知らないが,噺家の人柄は,よく分かるようになったのではあるまいか。せんだって,上野鈴本の正月二之席にうかがって,このことは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/413747300.html
に書いたが,柳家喬太郎師匠の趣味,
落語界きってのウルトラマンフリーク,
ということが分かっている人にだけ笑えるネタがあり,まさに,喬太郎師匠のことは,
自分だけがが知っている
という人にとっては,まさに,
得たり賢し,
というか,我が意を得たりという感じなのにちがいない。そう,
思い込み,
というか,
思い入れ,
にかなうからこそ,好きになるのではないか。
小三治師匠の実像がどういう人かということとは別に,自分があの噺で知った小三治師匠の人柄こそが,僕にしかわからない人柄,人物像なのだと思い込むからこそ,すべての噺に,それを見る。それが,ファンというものなのだろう。
僕は,先日,さん生師匠の噺を聴きながら感じたのは,そこなのだ。
つまるところ,
落語好きとは,噺家好きなのである,
と気づいた次第である。
孔子は,
これを知る者はこれを好む者にしかず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず
とおっしゃったが,
これを知る者はこれを好む者にしかず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず,これを楽しむ者はこれを好む故に楽しむ,
とでも,一言付け加えて見たくなった。
自分の発見に悦に入っているところなぞも,まあ素人の素人たる所以なのかもしれない。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
ラベル:知楽好