2015年02月26日
直感
直感については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163385.html
で書いたことがあるが,感じたことを,ただ伝えるだけでは,内からの思いつきなのか,相手の話に沿ったそれなのかの区別がつかない。
僕は,
聴く
ということの奥行に,このごろよく立ち止まることが多い。前にも書いたかもしれないが,「聴(聽)」の,「聽」の字の右側は,
悳
とも書き,真っ直ぐなこと。耳の下の「王(テイ)」は人が真っ直ぐに立ったさま。「耳+悳」で,真っ直ぐに耳を向けて聞き取ること,を意味する。
しかし,どうしたら,まっすぐ聞き取ることになるのか,
どう聴くのか,
何を聴くのか,
どこを聴くのか,
なぜ聴くのか,
その聴き方に,こちらのありようそのものが,炙り出される。会話は,
聴き手がどう返すか,
で,話し手が何を話したかが決まる。話し手は,その返し方で,話した中味をずらしていく。それは,どう応答するか,で決まる。その応答の仕方は,どう返したら,
きちんと聴いてもらえた,
と感じるのだろう。繰り返しではないし,承認でもないし,要約でもないし,そういう返し方のスタイルではないような気がする。聴いてもらえたと感じてもらうことが,本当に聴いていることになるとは限らない。
話し手にとって,聴き手の声の位置,聞え方も関係あるかもしれない。遠くから返事しているように聞えているのか,すぐそばにいるように聞こえるのか,近いといっても,どの位置にいてくれる感覚が,聴くということなのだろう。
目の前か,
横に立っているのか,
すぐ耳元に立っているのか,
支えるように背後にいるのか,
どの位置が,話し手とって,聴いてもらえている,という感覚になるのだろう。それは,返し方とも,応答とも関係ない,聴き手のポジションに関係あるのかもしれない。
ここで,聴き方を問題にしているのは,直感を考えるにあたって,それが,聴き方と深くつながっている気がしているからだ。
話し手は,自分と対話しつつ,話をする。それは,言語化すること自体が,自己対話に他ならないからだ。それを思考スタイルと言ってもいいし,考えるスピードと言ってもいいし,話すペースといってもいい。そのことについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/412037148.html
で触れた。直感は,その自己対話そのものの中から,生じたかのような気づきでなくてはならない,と思う。とすると,そのためには,話し手のスピードと同じような思考スタイルと,言語化スピードに,自分がなっていなくてはならない。それは,
共感性,
と同じ基盤,でなくてはならない。エリクソンが,
相手の枠組みであること,
といったことと同じである。それは,
そうそう,それって,こういうことではないの,
そう感じているのは,○○だからではないのか,
と,つぶやくような直感は,そのまま,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/413804239.html
で書いた,問いかけそのものと似てくる。それは,自己対話が,堂々巡りではなく,渦巻きのように,螺旋を描いて,深まっていかなくてはならない。そういう問いでなければならないし,そういう直感でなくてはならない。それは,話し手自身が語っていることの,
名づけ
であり,
言語化,
であり,
喩え,
であり,
メタファー,
であり,
見立て,
であるような,カタチにして示す,そういう直感であるし,話し手自身が探りあぐねている突破口を,既にあるもののようにして,そこに描き出すものでなくてはならない。
第三者の視点ではなく,自問自答のメタ・ポジションである。そこから外れてしまえば,単なる岡目八目の,お節介に過ぎない。
やはり,そのカギは,聴き方そのものの中にある,と感じるのである。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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