2015年02月27日
楽天
天を楽しみて命を知る。故に憂えず
とは,『易経』繋辞上伝にある。いわゆる楽天の出典らしい。
何度も書いたが,
死生命有り
富貴天に在り(『論語』)
である。ここでいう,天には,「生き死にの定め」「天の与えた運命」の二つがある。
そう,天命が定められているなら,齷齪あがく必要はない,内に聞こえる天の声を承けて,
おのれのなすべきこと
を果たせばよい。
これも,前に書いたが,天命には,三つの意味があり,一つは,天の与えた使命,
五十にして天命を知る
である。いまひとつは,天寿と言う場合のように,「死生命有」の寿命である。
そして,いまひとつ,
彼を是とし又此れを非とすれば,是非一方に偏す
姑(しばら)く是非の心を置け,心虚なれば即ち天を見る(横井小楠)
で言う天は,「天理」のことだ。だから,神田橋條治氏流に言うと,
天命を信じて人事を尽くす
となる。
迷った時,何を聞くか,心の声であり,天の声だ。天の声は,天理に通じ,天命に従う。
心虚なれば即ち天を見る
とは,「虚心見理」である。
このとき,自分を離れ,虚心に,天に耳を傾ける。
これを天に照らす
ともいう。ここには,天理にかなうはずという,自らへの確信である。
虚心とは,
心に何のわだかまりもないこと
という。たぶん,虚心に内なる声を聴くとき,
坦懐,
つまり,心たいらか,胸にわだかまりない状態でなくてはならない。そういう意味では,心の鬱屈が解き放たれてのびやかになった状態を表すと言っていい。
おそらく,それを待つのではない。心に鬱屈のない日などは数えるほどしかない。そうではなく,
ただ,天地に連なって立つ(在る)
状態になることで,あるいは,そういう状態をつくることで,心が,開かれる。それが,
確信
である。だから,主体的なのである。そこに,天と心をつなぐ回路が通じる。その意味で,
天命を信じて人事を尽くす,
か,あるいは,清澤満之は,それを,
天命を安んじて人事尽くす,
としたが, もちろん,生きるのも為すのも自分である。他力に頼ったところで,それにすがってやったのでは,自責ではない。他力本願とは,ある意味,すがることの放棄である。
はからい
を捨てることである。それは,逆に言うと,何かをしたからとか,しなかったから,というおのれの思い入れや希望や仮託を捨てることである。それは,自分の責任で生きる,ということに他ならない。
天命
は,ただ,それを自覚しなければ,耳にも心にも聞こえない。主体的なかかわりの中で,自分の責任で生きる。その結果を忖度しない。
他力には義なきを義とす
とは,
「『義』とは,自力のはからいをさしているから,人間の思慮や作為を否定するのが他力である」
意味である。
天を楽しみて命を知る。故に憂えず
とは,天の理法を楽しみ,自分の運命を生きる喜びを知るならば,人に憂いはない,という意味である。その意味で,
「楽天」と「知命」
はセットである。だから,それを受け入れて,楽しめるのである。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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