2015年03月02日
術
12通の往復書簡から成っている,甲野善紀・前田英樹『剣の思想』を読む。
前田英樹氏については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/396988408.html
で触れたことがある。甲野善紀氏については,直接ではないが,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163234.html
で触れた。
前田氏が,あとがきで,
「スポーツ式の,つまり西洋式の身の置き方,動き方は,老熟ということを知らない。老熟を知らない世界に名人が生まれるはずはないのだ。」
と述べている。若い者のスポーツと武術との違い,つまりこの本の趣旨を,この一言で言い尽くしている。甲野氏は,それを受けて,
「武術においては,術を身につけた者が老人になっても,術を知らぬ血気の若者などを手もなくあしらったというのは,その身体の運用方法に無理がなく,単なる慣れで体を動かしていた人々とは動きの原理が根本的に違っていたからだと思うのです。」
と述べている。しかし,そんな名人芸も,単なるほら話と受け取られるのが今日の状況です。
「スポーツ選手の頂点は,残酷なほど若い時にやってきます。酷使して,あちこち壊れかかった体を残して現役を退いた時には,かれらは後進の指導とかいうもの以外,スポーツに対して何をしたらいいのかわからない。」
それは,
「スポーツの技術は,体を摩耗させ,ごく短期間で限度に達してしまうことと切り離せない。それは,この技術が,たとえば,職人の手先技などと違って,体全体を激しく使って成り立つものだからでしょうか。決してそうではないと,私は思う。原因は,スポーツの動作体系そのもののなかにこそある。この体系が根ざしている運動の一般法則が,多量に行えば身を損じるという,あきらかな条件のなかに置かれていることに因っているのです。」
と前田氏は言う。そして,
「私が誉めそやしたい技術は,もっと別なところで,おそらくは黙々と生きている奇術です。年齢の積み重なりと強くかかわり,それによってのみ少しずつ可能となってくるような技術なのです。」
という,前田氏は新陰流,甲野氏は,井桁崩しの考案者である武術研究家,ともに,剣術を念頭に置いている。両氏とも,武道という言葉を嫌う。甲野氏は,
「武道という名称が世に広く用いられるようなになったのは明治の始め,武術一般がおちぶれ,蔑視された後に隆盛となった講道館柔道の創始者加納治五郎の『術の小乗を脱して,道の大乗に』という名言がなにより大きな原動力になっていると思います。この一言で,剣術は剣道に,空手道,合気道,杖道,居合道と現在広く行なわれている武道は,皆,『~道』というようになり,単に武の世界のみならず,茶の湯や生け花も,『茶道』『華道』と」
言うようになった,と言っている。それはそのまま,スポーツへと地続きとなっていく。剣術という呼び方は江戸時代からで,それ以前は,宮本武蔵も,兵法といい,上泉伊勢守も新陰流兵法と名のっている。それについて,
「江戸期を通じて『術』はすでにその中身をなくして広まっていき,遂に柔道式の乱取り稽古を生んでいく…。…剣術,柔術の呼び名が一般化して行った江戸期は,剣術であれ柔術であれ,『術』と呼ばれるに足る中身を根本からなくしていった時代でした。反対に,兵法の呼び名が一般的であった時代には,数々の恐るべき術があり,我が術の成否に日々の命を託して生きるほかない人間が限りなくいた。兵法が生み出されたのは,このような『術』からです。言い換えれば,『法』は,『術』が『術』に克たんとする激しい願いから念じられていた。…日本の戦国期とはこういう時代です。上泉伊勢守の兵法や千利休の茶の湯は,この時代が抱き続けた或る願いの突如とした結実のように起こってきたに違いない。」
と,前田氏は言う。では,その身体使いとはどんなものか。たとえば,
「フィギュアスケートの選手が取る腰のかたちは,新陰流剣術で言う『吊り腰』の形に時としてまったく一致していることがある。腰の背骨のところを垂直に吊り上げられているような姿勢です。この姿勢によって,むしろ体重は上に吊り上がるのではない。体重は,下腹内部のほぼ中央ないしやや前方よりのところから真下に降りるようになる。このような立ち方を一貫して保った歩行が,上泉伊勢守以来の新陰流のものです。こうした歩行では,足が『浮く』と言われる。浮いた足は,地を蹴りません。膝はやや折ったカタチ。進行方向に顔が向いている時は,額と前脚の膝と足指の付け根あたりとは,床に対して垂直のほぼ一線で並んで移動する。」
と言う。これは,まさしく能の「仕舞」の所作である。柳生家は金春流と深いつながりがあり,
「現在の能役者の進退こそ,新陰流の足法を最もよく継承,具現している」
と言う。こうした所作は,その時代の,
歩行文化
の反映であるから,
「能と新陰流剣術とが,発生当時,同一の歩行文化を土壌とし,その土壌から或る共通の純粋な動作体系を,はっきり自覚して引き出すことに成功した」
ということになる。当然,その時代の歩行文化を反映するのだから,今日それが失われているのは,当然のことになる。
「新陰流の移動においては,移動する際に生じる体の軸を何より重んじます。四足獣が歩行する時の移動軸は,言うまでもなく,その脊椎と一致している。軸と脊椎とは,ここでは同義語です。直立歩行する人間では,この二つは直角の方向に分裂している。従って,人間はそのままでは,どうしたって四足獣の運動の一貫性,適切性には敵わないでしょう。靭帯の移動軸は,脊椎の軸から切り離されたために,まことにバラバラな,曖昧なものになっている。」
それをスポーツでは,
「移動軸がバラバラになった靭帯を,そのまま運動の一般法則に従わせ,徹底して酷使する。酷使に耐えられる体力さえ作っておけばそれでよいというわけです。」
対して,新陰流では,
「移動軸は,足法との緊密な連関を通してまったく新しく立て直されなくてはならない」
という考えで,そのために,
「脊椎の曲げによる上体の捻り屈みを禁じる必要がある。(中略)たとえば,刀を縦に真直ぐ振り下ろす場合には,上体を後ろに反らし,横に振る場合には,振る方向の反対側に状態を捻る。あるいは,斬り込む直前にいったん状態をたわめて引く。こういった種類の動きは,すべて日常動作がもたらす基本的な弊害として,消し去らなくてはなりません。どのようにして消し去るのか。
吊り腰による浮き足の足法を身に付けた場合には,ただ真直ぐ正面向きに歩くだけなら,上体はぶれません。反動動作は自然に消える。この時,移動軸は体を左右対称に割った真ん中の線におのずと決まる。」
とする。これを,甲野氏は,「武の技の世界には,『居付く』ということを嫌う伝承が古来から受け継がれて」いるとして,こう述べている。
「この言い伝えに従うならば,床に対して足を踏ん張らないのは勿論のこと,下体に視点を置いて上体を捻ったり頑張ったりしないこと,また腕を動かす時,腕や肩や胸を蹴る形で,つまり固定的支点を肩の関節に作らないようにすることが大事で,そのために,体各部をたえず流れるように使うことが重要なわけです。足や腰を固定して身体をまわすから捻れる…。」
武術では,老人が膂力のまさる若者を手もなくあしらったのは,
「その身体の運用方法に無理がなく,単なる慣れで体を動かした人々とは動きの原理が根本的に違ってきたからだ…」
というものである。今日の「なんば走り」等々が見直されているのは,甲野氏の発見が大きい。このことは,日本の太刀が世界でも珍しい両手保持となったことと深くつながっている。
「片手保持の『太刀打』では,太刀は振られる腕の延長としてあり,それ以上ではありえない。その使い方は,刀剣を単なる道具として手首や肘関節でこねるようにして使う剣技より,はるかによく運動の一般法則を脱することができます。けれども,この時,太刀といったいになって振られる腕は,体全体の動きから見れば,やはりひとつの道具のように機能している。肩先から太刀の切っ先までが一本の武器となって旋回するわけです。
両手保持の刀法ではそうではない。…刀は決して腕で振ってはならない。体全体の軸移動のなかに斬り筋の一貫した体系が成立するのです。」
として,こういう例を挙げる。吊り腰で,移動するのに,斬りの動作を重ねることについて,
「移動軸が身体の中心線にある場合には,斬りはその中心線に沿った真直ぐの太刀路しか使えません。斬りが斜め袈裟に入るのなら,移動軸はその太刀路に合わせ,体の中心線をはずれた別の位置に正確に立てられなければなりません。」
として,少し細部にわたるが,こう分析してみせる。
「大ざっぱに言って三つある。すなわち,体を左右に分ける中心の軸と,左右の肩から両膝を縦に通って地に達する二本の軸とがそうです。八方に開かれた吊り腰の足法は,これら三本の移動軸によって統括され,言わば積分される必要がある。なぜか。その移動が八方に開かれた二つの身体の攻防は,それ自体が無際限に続くほかない性質のものだからです。八方に開かれた移動の関数は,積分されて三つの移動軸に収まる。敵手に対して体が真正面を向いて移動する時には,中央の軸が活きて働いています。右肩,右腰が前方に出た『右偏身(みぎひとえみ)』の移動では右軸が活きて働き,左肩,左腰が前に出た『左偏身』の移動では左軸が活きて働いている。一つの軸が働く時には,他の二つは潜在的状態であり,潜在して一本の軸を支えていると言えます。」
新陰流では,「敵手を斬るとは,自分と敵手との間に」接点を創り出すことであり,「敵手の移動をそれとの接点で瞬時に崩す」ことが,敵を倒すことだ,と言う。それが間合いと拍子ということになる。
最後に,昨今,名人,名人芸が減ってきたのについて,思い当ることがある。前田氏が,上達下達,について触れたところがある。これは,『論語』にある,
君子は上達し,小人は下達す,
から来ている。
「凡人は,とかつつまらぬことに悪達者になる。励めば励むほど,反ってそういう方向に突き進んでしまう。やがて手に負えない厄介者になり,俺はこんなにすごいと言って回りを睥睨する。実は並み以下の者でしかないのに。これが『下達』という意味でしょう。この裏には,『上達』とは何と難しいことか,という孔子の嘆きと,また驚きがあるに違いない。」
まさに,自戒をこめて,今日の毀誉褒貶のハードルの低さとも関わり,汗が出た。
参考文献;
甲野善紀・前田英樹『剣の思想』(青土社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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